2018年12月31日

形式と内容

ガワと中身と、似ていて、違う議論。


たとえば、
ロックを日本語でやると、
なんだかやぼったい。
ロックは、英語の単語と相性が良い音楽だと思う。

ロックのキレのいい言葉の連発と、
日本語の言葉の在り方は異なるように思う。

さらに相性が悪いのは、ラップだ。
日本語のラップは、何がいいのか分らない。
ただわかりにくい発音で、文句を言っているだけに聞こえる。

まだ中田カウスボタンのボヤキ漫才のほうが、
世の中の欠点を鋭く突いているように思える。


形式と内容は、関係ないようでいて関係がある。
まったく独立であるわけではない。
その形式で最適な内容、
という範囲があるように思える。

たとえば政治の批判は、
コメディ映画ではできる。皮肉なギャグとしてだ。
ドキュメント映画でもできる。深刻な現状を撮影することでだ。

しかし、冗談にならないほどの緊急の政治批判は、
コメディでやっている場合ではなく、デモをするべきだ。
あるいは、絵にならないが深刻な惨状は、
ドキュメント映画で訴えることができない。

ピューリッツァ賞で有名な、
アフリカの飢餓を訴えるための、
ハゲワシが飢えて死にそうな子供の前にいる写真は、
「写真で飢餓状態を捨象する」
という一枚絵に収められることで、
概念を一枚の絵にした功績がある。

飢餓という抽象的な政治問題を、
分り易い直感に変えたのである。

写真という形式は、複雑な抽象的なことを操れない。
具体的なものしか写せない。
しかし、具体的なものを並べることで、
抽象的なものを象徴することはできる。
そして、伝えるのに言葉がいらなく、最速で伝わることが利点である。

この写真という形式が、アフリカの飢餓を訴えるのに有効であったから、
たとえフェイクだったとしても、
賞を取るに値したのだと思う。

アフリカの飢餓を論文や漫画や音楽で訴えるより、
スピードが速く、全世界に回るという意味で、
写真という形式が、もっともその内容にふさわしかったのだ。


つまり、
あなたのやろうとしていることは、
その形式でやることがベストだろうか?
ということを問うべきだ、
ということが本題だ。


コメディでやるのがいいのか。
リアリティでやるのがいいのか。
SFにして全然違う世界でやってしまうのがいいのか。
アニメがいいのかもしれない。
いや、映画じゃなく、
写真でやったり、ツィッターでやるのがベストなのかもしれないよ?

よくできたものは、
形式と内容が一致している。

さらによくできたものは、
その形式でしかその内容を伝えることができないくらい、
形式と内容がマリアージュを起こしているようなものだ。
そして出来るなら、
それが新しい組み合わせがベストだ。


映画は、すべての物語の形式からすれば、
ごく一部の形式のものに過ぎない。

三人称で一人称を扱えない、という欠点があるかわりに、
映像での強さ、抽象的なものを具体で象徴する、
という利点がある。

映画がもっともただしい形式なのか?
物語りがもっともただしい形式なのか?
あなたのやろうとしていることは、
一体なんなのか?

形式と内容が、
どちらもこれしかない、
という所まで煮詰まっていないと、
完成した、とは言えないと思う。

逆に、完成度の高い映画は、
映画という形式でしか表せない内容になっていて、
この内容を最適に表現するのは映画しかない、
というものになっている。

漫画や小説の映画化に僕が大反対なのは、
そのことを反対しているわけだ。

もちろん、
映画が最高の媒体になる原作もあるかもしれない。
でも面白い小説や漫画は、その媒体に最適化していると思うよ。


小説や漫画の映画化は、
日本語ラップのような寒さがある。

僕は、映画ならではの内容を、
映画という形式で描いているようなものが好きだ。


あなたのやりたいことは、
どういう形式がベストなのか?

映画形式がベストじゃないことを思いついていて、
ずっとうまくいかない、と悩んでいるだけかもしれないよ。
posted by おおおかとしひこ at 17:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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