ガワと中身と、似ていて、違う議論。
たとえば、
ロックを日本語でやると、
なんだかやぼったい。
ロックは、英語の単語と相性が良い音楽だと思う。
ロックのキレのいい言葉の連発と、
日本語の言葉の在り方は異なるように思う。
さらに相性が悪いのは、ラップだ。
日本語のラップは、何がいいのか分らない。
ただわかりにくい発音で、文句を言っているだけに聞こえる。
まだ中田カウスボタンのボヤキ漫才のほうが、
世の中の欠点を鋭く突いているように思える。
形式と内容は、関係ないようでいて関係がある。
まったく独立であるわけではない。
その形式で最適な内容、
という範囲があるように思える。
たとえば政治の批判は、
コメディ映画ではできる。皮肉なギャグとしてだ。
ドキュメント映画でもできる。深刻な現状を撮影することでだ。
しかし、冗談にならないほどの緊急の政治批判は、
コメディでやっている場合ではなく、デモをするべきだ。
あるいは、絵にならないが深刻な惨状は、
ドキュメント映画で訴えることができない。
ピューリッツァ賞で有名な、
アフリカの飢餓を訴えるための、
ハゲワシが飢えて死にそうな子供の前にいる写真は、
「写真で飢餓状態を捨象する」
という一枚絵に収められることで、
概念を一枚の絵にした功績がある。
飢餓という抽象的な政治問題を、
分り易い直感に変えたのである。
写真という形式は、複雑な抽象的なことを操れない。
具体的なものしか写せない。
しかし、具体的なものを並べることで、
抽象的なものを象徴することはできる。
そして、伝えるのに言葉がいらなく、最速で伝わることが利点である。
この写真という形式が、アフリカの飢餓を訴えるのに有効であったから、
たとえフェイクだったとしても、
賞を取るに値したのだと思う。
アフリカの飢餓を論文や漫画や音楽で訴えるより、
スピードが速く、全世界に回るという意味で、
写真という形式が、もっともその内容にふさわしかったのだ。
つまり、
あなたのやろうとしていることは、
その形式でやることがベストだろうか?
ということを問うべきだ、
ということが本題だ。
コメディでやるのがいいのか。
リアリティでやるのがいいのか。
SFにして全然違う世界でやってしまうのがいいのか。
アニメがいいのかもしれない。
いや、映画じゃなく、
写真でやったり、ツィッターでやるのがベストなのかもしれないよ?
よくできたものは、
形式と内容が一致している。
さらによくできたものは、
その形式でしかその内容を伝えることができないくらい、
形式と内容がマリアージュを起こしているようなものだ。
そして出来るなら、
それが新しい組み合わせがベストだ。
映画は、すべての物語の形式からすれば、
ごく一部の形式のものに過ぎない。
三人称で一人称を扱えない、という欠点があるかわりに、
映像での強さ、抽象的なものを具体で象徴する、
という利点がある。
映画がもっともただしい形式なのか?
物語りがもっともただしい形式なのか?
あなたのやろうとしていることは、
一体なんなのか?
形式と内容が、
どちらもこれしかない、
という所まで煮詰まっていないと、
完成した、とは言えないと思う。
逆に、完成度の高い映画は、
映画という形式でしか表せない内容になっていて、
この内容を最適に表現するのは映画しかない、
というものになっている。
漫画や小説の映画化に僕が大反対なのは、
そのことを反対しているわけだ。
もちろん、
映画が最高の媒体になる原作もあるかもしれない。
でも面白い小説や漫画は、その媒体に最適化していると思うよ。
小説や漫画の映画化は、
日本語ラップのような寒さがある。
僕は、映画ならではの内容を、
映画という形式で描いているようなものが好きだ。
あなたのやりたいことは、
どういう形式がベストなのか?
映画形式がベストじゃないことを思いついていて、
ずっとうまくいかない、と悩んでいるだけかもしれないよ。
2018年12月31日
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