2019年01月05日

小さいもので、大きなことを描く

これが表現の基本のような気がする。

大きなものを大きく描くのはただの相似で、
小さなものを小さく描くのはただの矮小で、
大きなものを小さく描き、圧縮し、
その小さな部分から大きなものを想像して解凍する、
その拡大する感覚が、表現ではないかと思う。


たびたび出すが、
ジュラシックパークで、
コップの水が恐竜の足元に合わせて震える、
という表現は、表現になっている。

恐竜が口を開けてガオーと言うのは、
ただの描写でしかなく、相似形でしかない。

神はディテールに宿るというのは、
このことを言うのかも知れない。

ガオーというときの、
震え方とか牙とか鱗が、ディテールではない。

コップの水の震え方が、ディテールに当たるのではないか?


小さなものを描いて、
それで大きなものを想像させるのは、
つまりは具体と象徴の関係だ。

それそのものを持ってくるより、
人はその関係を楽しむのである。



小さなもので大きなものを描くには、
たとえばどうすればよいか考えていて、
「風俗店の待合室で、
お忍びに来ていたプーチンとトランプと習近平と安倍が一緒になる」
というワンシチュエーションを思いついた。

彼らは待合室で、
世界を動かすことになる最も重要な会話を話すだろう。

これを架空の国と首相にしてしまえば、
キレのいいワンシチュエーションコントが出来るだろう。
第三次大戦の危機になり、
それから和平がもたらされ、
風俗嬢が急遽来れなくなってまたもめる、
みたいなオチにすればいけそうだ。

「地球最後の日」なんて大きなタイトルにすればよいかも知れない。


小さなもので、大きなことを描く。
その「拡大率」が、表現のひとつの面白さだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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