これが表現の基本のような気がする。
大きなものを大きく描くのはただの相似で、
小さなものを小さく描くのはただの矮小で、
大きなものを小さく描き、圧縮し、
その小さな部分から大きなものを想像して解凍する、
その拡大する感覚が、表現ではないかと思う。
たびたび出すが、
ジュラシックパークで、
コップの水が恐竜の足元に合わせて震える、
という表現は、表現になっている。
恐竜が口を開けてガオーと言うのは、
ただの描写でしかなく、相似形でしかない。
神はディテールに宿るというのは、
このことを言うのかも知れない。
ガオーというときの、
震え方とか牙とか鱗が、ディテールではない。
コップの水の震え方が、ディテールに当たるのではないか?
小さなものを描いて、
それで大きなものを想像させるのは、
つまりは具体と象徴の関係だ。
それそのものを持ってくるより、
人はその関係を楽しむのである。
小さなもので大きなものを描くには、
たとえばどうすればよいか考えていて、
「風俗店の待合室で、
お忍びに来ていたプーチンとトランプと習近平と安倍が一緒になる」
というワンシチュエーションを思いついた。
彼らは待合室で、
世界を動かすことになる最も重要な会話を話すだろう。
これを架空の国と首相にしてしまえば、
キレのいいワンシチュエーションコントが出来るだろう。
第三次大戦の危機になり、
それから和平がもたらされ、
風俗嬢が急遽来れなくなってまたもめる、
みたいなオチにすればいけそうだ。
「地球最後の日」なんて大きなタイトルにすればよいかも知れない。
小さなもので、大きなことを描く。
その「拡大率」が、表現のひとつの面白さだ。
2019年01月05日
この記事へのコメント
コメントを書く