などと武術の世界では言う。
日本の習い事は大体そうかも知れない。
つまりこれって伏線だよね。
武術の話で考える。
(これは小をもって大を考える考え方だ。
小で考察したことが、
大に適用できることで考え方を拡大するのだ)
最初に立ち方、構え、動き方、拳の握り方、
基本の突き蹴りを教える。
受け身もか。
で、色々な技に入る。
段階的に複雑で強力になってゆく。
技の返し技、その返し技などにも発展する。
最終的に色々出来るようになってしまったら、
結局最初に習った基本が全部できてないと、
効果的で威力がないということがわかるようになる。
一番大事なことを、
一番初めから長く鍛錬したから、今がある。
そういう構造になっている。
これは洗練された体系を持つ武術に限られる。
適当に継ぎ接ぎした体系にはあまり見られない。
たとえば蟷螂拳とか。
(だから蟷螂拳では源流の少林拳の基本を繰り返すことが多い。
小虎燕とか。これが奥義に繋がっているかは微妙だ)
つまり、いきなり結論をいうと、
洗練とは伏線だ。
何かを洗練するということは、
バラバラの何かをただ並べることではない。
少なくともそれらを整理することが必要である。
何かは何かと関連づけて隣に置かれたり、
対照的に置かれたり、
何かは何かの発展だったり、
あることを踏まえないと次がわからないなら、
それは順序を発生させるわけだ。
あるいは、要らないものを捨てたり、
あえて省略して発展させることもある。
そうして、複雑なことを整理していく。
そして、それらが一気通貫される何かによって前振りされ、
それらが最後に至る時に、
円環を閉じるように最初のものに戻ることが、
はじめに奥義ありの状態だ。
奥義とはすなわち伏線である、ということだ。
伏線とは、
複雑なものを理解するための、整理の手段のひとつと言えると思う。
必ず必要なわけでもないし、
これがないと洗練でないわけでもないし、
洗練のベストの方法とも限らない。
しかし、複雑な何かを、
伏線と解消の関係で、
「完全に理解した」まで結びつけることが可能な、
ひとつの方法である、
ということは言えるだろう。
はじめに奥義あり。
あなたは、テーマに関係するどういう伏線を最初に張ってある?
その伏線と落ちが連動したその時、
そのストーリーはそのテーマで全てが一気通貫される。
2019年01月08日
この記事へのコメント
コメントを書く