2019年01月13日

何故ぶつ切れが起こるのか

脚本の問題で良く起こる。
「クリード2」でもよく起こっていた。
何故、すぐストーリーはぶつ切れになってしまい、
流れるように進まないのか?


答えは簡単だ。
流れとは何かを考えればよい。

ストーリーの流れとは、
動機をもって何かしようと行動していることだ。
それが最終的に成功するかしないかが、
映画の中での最大の焦点である。

その流れがぶつ切れになるということは、
つまり目的が途中で曖昧になったり、
動機が明確でなかったり、
することで起こる。

ストーリーとは、
「こういうことをしたい、だからこうする」とか、
「こういうことをされないために、こうする」とか、
「これをされたので、こうしようとする」などで、
構成される。
状況に応じて、対応が変わるだけで、
基本的には、終始一貫したゴール進んでいく。

つまり、
行動の軌跡は論理的である。
AゆえにB、BゆえにC……
などとなっている、ということである。
この繋がりこそが、
ストーリーの流れを繋ぐものである。
これがないと、ストーリーがぶつ切れになる。

近視眼的に見ると、
シーンのエンドに、
次になにをしようとしているか不明で終わってしまい、
次のシーンが始まったときに、
このシーンで何をしようとしているか、
分らない状態ではじまってしまっている。

つまり、シーンとシーンが、論理的につながっていないので、
そこでストーリーが切れている。

これが繰り返されると、
ストーリーがぶつ切れになっている印象が強まっていく。

逆に、
シーンのエンドに、次するべきことが判明して終わったり、
次するべきことを予感させて終わったり、
次に来ることが予測されて終わったりして、
次のシーンの頭が、
前のシーンを受けて始まっていたり、
前のシーンの最後でやろうとしていたことが、
既に結果が出ていたり、
前のシーンのアンサーシーンになっていたりすると、
「ストーリーが繋がっている」
という感覚になるはずだ。

ストーリーが論理的に繋がっているから、
我々はストーリーが繋がっていると感じる。
関係ないシーン同士が接続されていても、
ストーリーとは感じない。
たったそれだけのことだ。

逆にいうと、
あるシーンの終わりに、
次への繋ぎを作り、
次のシーンでそれを受け、
そのシーンの終わりで次への繋ぎを作り……
と無限にやれば、
永遠にストーリーを繋げることができるはずだ。

出来ないのは、つまらなくなってしまうこととの闘いだからである。

逆にいうと、
面白い、ぶつ切れになっていないストーリーとは、
シーンがすべて論理関係で繋がっていて、
かつ面白さが損なわれていない構造をしている。

それが難しいから、
ついつい、シーンとシーンの間をぶった切って、
別の話を始めてしまうのだ。

で、ぶつ切れのストーリーに仕上げてしまう、
という愚の骨頂になってしまうのだ。


「クリード2」において、
妊娠から出産までのシークエンスは、
すべて省略することが可能だ。
これは論理で繋がっていないからだ。
アクシデントへの対処が長く長く続いているだけ、
ということと、構造的に同じであった。
だから見ているとき、非常に退屈だった。
すべてぶつ切り感があった。

論理というのは、
目的があり、行動で実行される何かについてのみ、
発生する。
妊娠から出産までは、
幸せの時間ではあるが、論理は繋がっていない。
逆にいうと、時が止まっている。
それがストーリーが進行していないと我々が思う瞬間である。
(その裏の本来の文脈、
「挑発された試合を、受けるつもりである」
という文脈が停滞していただけである)


ある繋がりが発生して、次のシーンへと繋がり、
……次のシーンへ繋がらない、
という一連を、
シークエンスと呼ぶ。

あなたのストーリーは、何シークエンスあるだろうか?
理想は、1シークエンスで、
最初から最後まで、一連で繋がっている、
面白いストーリーである。

あるところで主人公がやっている一方、こちらは……
なんて所でシークエンスが途切れることもあるから、
実際のところは、映画は、数個単位のシークエンスで描かれる。
これが10とか20になってくると、
ぶつ切れの印象は免れまい。

なるべく、ストーリーの論理を繋げよう。
次への繋ぎを作り、
必ず前のシーンからの繋ぎを作ろう。
関係ないシーンを繋げたとき、
そこがぶつ切れの候補だ。

1夜が来た。
2朝になった。
これはストーリーが繋がっていないので、
2シークエンスのぶつ切れだ。

1夜が来た。祈りながら朝を待った。
2朝になったので、安心した。
(たとえば吸血鬼と闘っている文脈)
こうすると、このふたつは繋がっている1シークエンスになる。


「クリード2」は、
ぶつ切れだらけで、
あんまりストーリーが繋がっていなかった。
これが、この映画に我々が乗れなかった、
理由である。
posted by おおおかとしひこ at 01:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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