気になったのは、
「耳が聞こえない」ことを逆境のひとつとして扱うのは良いが、
多様性がこんだけ叫ばれている中、
「ただの嫌な、差別するべきもの」
として扱われていたことだ。
耳が聞こえないこと自体はハンディキャップだ。
しかし、
身体的ハンディキャップと、
「人生がうまくいかない」ことは関係がないし、
関係があるべきではない。
母になったヒロインは、
「いずれ耳が聞こえなくなる」
という爆弾を抱えたまま生きていて、
それが子供に遺伝するかどうかを恐れている。
ここらあたりに、ドラマの種があるのに、
なぜそれに対して、
「ただ怯えているだけ」しかなかったのかが、
とても気になっている。
この手の身体的ハンディキャップへの出口は、
パターンが決まっていて、
「耳が聞こえないことも個性の一つとして生きていく」
しかない。
身体的ハンディキャップがない人だって、
自分勝手とか、
頭が悪いとか、
頑固とか、欠点がある。
それが治らないやつがいる。
それはそんなものだと思って、
別の長所を伸ばすことが、
人生をよりよく生きることだ、
ということが結論になるに決まっている。
身体的ハンディキャップを、
モチーフとして出してくるのは、
少なくともこの結論に至るためのストーリーラインを描くためである。
それが、
アドニスの、
「欠点を克服して試合に勝つこと」と、
関係あるべき、
問題設定(セットアップ)になっている。
にも関わらず、
「耳が聞こえないこと」は、
ただの忌避するべき呪いのような扱いになっていて、
これは全米難聴協会(あるのか)は抗議したほうがいい。
そういえば、
赤ん坊は耳聞こえるかどうかを「不明」にしたのも、
なんだかモヤモヤするね。
シナリオ上は、
「泣き止まなくてジムに連れて行き、
サンドバッグを叩いた音に反応して、
耳が聞こえているとわかる」
というシーンがあったのかもしれないが、
それこそ多様性に配慮してカットされたのかもしれない。
生き過ぎた多様性による表現狩りはまっぴらだが、
そもそも多様性を利用したドラマをきちんと組めないのなら、
難聴設定などやめちまえ、
って感じはするけどね。
クリード3があるとしたら、
いよいよ嫁の失聴がドラマになるんだろうが、
それに残したのが見え見えでね。
今回、「嫁と娘の失聴を乗り越える」
ということを、
アドニス側のドラマにしてもいいと思うよ。
ドラコの執念に答えるのは、
それくらい人生という重いパンチでないとなあ。
物語における逆境というものは、
それを乗り越えることとセットである。
しかも、
その逆境があったからこそ、
逆境がないときよりも、良い結末になった、
というのが理想だ。
それが逆境の存在意義である。
難聴や失聴は、
「それがあってよかった」
という「乗り越え」とペアであるべきで、
今回にそれが何もないのが、
何も面白くなかった。
なくてよかったんじゃね。
逆境と乗り越えをどう捌くかは、
ストーリーの根幹そのもので、
それは脚本家の最も大事にするべきだ。
なぜなら、その「乗り越え方」が、
テーマになるからだ。
「クリード2」のテーマは何か?
まったくもってぼんやりしている。
「クリード1」には明確なテーマがあった。
「俺は間違いじゃない」だ。
それに匹敵する逆境と乗り越えを用意するべきだった。
父アポロとの思い出が一つもないのも、
詰まらない。
(カールウェザースの肖像権の問題?)
難聴はその逆境からテーマを炙り出すのに最適なモチーフだった
(人間には欠点がある。
欠点を変えられないなら、
長所で補うしかない、
とかをテーマにできるはずだ)
にも関わらず、
ただの「嫌な要素」でしかなかったのは、
脚本の問題である。
2019年01月13日
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