2019年01月13日

耳が聞こえないことがそんなにマイナスか?(「クリード2」評3)

気になったのは、
「耳が聞こえない」ことを逆境のひとつとして扱うのは良いが、
多様性がこんだけ叫ばれている中、
「ただの嫌な、差別するべきもの」
として扱われていたことだ。


耳が聞こえないこと自体はハンディキャップだ。

しかし、
身体的ハンディキャップと、
「人生がうまくいかない」ことは関係がないし、
関係があるべきではない。

母になったヒロインは、
「いずれ耳が聞こえなくなる」
という爆弾を抱えたまま生きていて、
それが子供に遺伝するかどうかを恐れている。

ここらあたりに、ドラマの種があるのに、
なぜそれに対して、
「ただ怯えているだけ」しかなかったのかが、
とても気になっている。

この手の身体的ハンディキャップへの出口は、
パターンが決まっていて、
「耳が聞こえないことも個性の一つとして生きていく」
しかない。

身体的ハンディキャップがない人だって、
自分勝手とか、
頭が悪いとか、
頑固とか、欠点がある。
それが治らないやつがいる。
それはそんなものだと思って、
別の長所を伸ばすことが、
人生をよりよく生きることだ、
ということが結論になるに決まっている。

身体的ハンディキャップを、
モチーフとして出してくるのは、
少なくともこの結論に至るためのストーリーラインを描くためである。

それが、
アドニスの、
「欠点を克服して試合に勝つこと」と、
関係あるべき、
問題設定(セットアップ)になっている。

にも関わらず、
「耳が聞こえないこと」は、
ただの忌避するべき呪いのような扱いになっていて、
これは全米難聴協会(あるのか)は抗議したほうがいい。

そういえば、
赤ん坊は耳聞こえるかどうかを「不明」にしたのも、
なんだかモヤモヤするね。
シナリオ上は、
「泣き止まなくてジムに連れて行き、
サンドバッグを叩いた音に反応して、
耳が聞こえているとわかる」
というシーンがあったのかもしれないが、
それこそ多様性に配慮してカットされたのかもしれない。

生き過ぎた多様性による表現狩りはまっぴらだが、
そもそも多様性を利用したドラマをきちんと組めないのなら、
難聴設定などやめちまえ、
って感じはするけどね。

クリード3があるとしたら、
いよいよ嫁の失聴がドラマになるんだろうが、
それに残したのが見え見えでね。

今回、「嫁と娘の失聴を乗り越える」
ということを、
アドニス側のドラマにしてもいいと思うよ。
ドラコの執念に答えるのは、
それくらい人生という重いパンチでないとなあ。


物語における逆境というものは、
それを乗り越えることとセットである。
しかも、
その逆境があったからこそ、
逆境がないときよりも、良い結末になった、
というのが理想だ。
それが逆境の存在意義である。

難聴や失聴は、
「それがあってよかった」
という「乗り越え」とペアであるべきで、
今回にそれが何もないのが、
何も面白くなかった。
なくてよかったんじゃね。


逆境と乗り越えをどう捌くかは、
ストーリーの根幹そのもので、
それは脚本家の最も大事にするべきだ。
なぜなら、その「乗り越え方」が、
テーマになるからだ。
「クリード2」のテーマは何か?
まったくもってぼんやりしている。

「クリード1」には明確なテーマがあった。
「俺は間違いじゃない」だ。
それに匹敵する逆境と乗り越えを用意するべきだった。
父アポロとの思い出が一つもないのも、
詰まらない。
(カールウェザースの肖像権の問題?)

難聴はその逆境からテーマを炙り出すのに最適なモチーフだった
(人間には欠点がある。
欠点を変えられないなら、
長所で補うしかない、
とかをテーマにできるはずだ)
にも関わらず、
ただの「嫌な要素」でしかなかったのは、
脚本の問題である。
posted by おおおかとしひこ at 12:25| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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