ロッキーの内的問題は、
アポロのセコンドについた時、
「タオルを投げずに、アポロを殺してしまったこと」だ。
これの解消が行われていない。
以下ネタバレ。
ラストの試合、
セコンドのドラコがタオルを投げるのは、
すごくいい場面だと思った。
あれで親子の信頼を見た気がした。
こんな美味しい役を、ドラコにやらせていいのか?
そもそも、
ロッキーの内的問題、
「息子に会っていないこと」は、
感情移入に値しない。
今回の試合となんら関係ないからね。
全部カットしても問題なかっただろう。
より根深い問題は、
ロッキーがタオルを投げなかったことで、
主人公クリードの父を(結果的に)殺したことだ。
親友の思いがわかったからこそタオルを投げなかった、
ということを、ロッキーは息子に言っていない。
この辺りの葛藤を、
なぜ盛り込まなかったのか、分からない。
今回の大きな構造は、
チャンピオンになる、
挑戦を受けて負ける、
リベンジする、
の、
トップ→どん底→トップ
の構造である。
どん底の部分で「ロッキーがセコンドにつかない」があり、
そのあとの駆け上がりに「ロッキーと組む」がある。
この部分を、
「ロッキーがセコンドについたがタオル投入で負け」
→決裂、
というドラマを作ることができたはずだ。
ロッキーがタオルを投入する気持ちは誰もがわかるし、
まだやれるのにロッキーに止められた男として、
アドニスはプライドが傷つくはずだ。
ここで決裂すればどん底をつくれる。
あとは、
「タオルを投入することは、家族同然なら当然」
と、家族として理解し合うまでを描けば、
今回の「家族」というモチーフをテーマにできたかもしれない。
たとえば、
「娘がボクサーになったとして、
あなたがセコンドについたとする。
娘の闘志は衰えていないが、
状況は不利。闘志があることで命が奪われるかもしれない。
その闘志を折れるのは、あなたのタオルしかない」
と嫁が言えばどうだ?
「またセコンドを頼みたい。
タオルを投げるのは、あんたに委ねる」
と、熱い復活劇を作れたのではないだろうか?
そうすれば、
クライマックスの、ドラコのタオル投げは、
さらに素晴らしいドラマになっただろう。
戦闘マシンの中に人間を見るからだ。
ついでに、
ラスト、息子の家の玄関の外で、
チャイムを押す勇気の出ないロッキーに向かって、
「早く行けよ。ダメそうだったら俺がタオル投げる」と、
アドニスがついてやることが出来たかもしれない。
(さらについでに、
息子が窓の外で待っているアドニスを見て、
「なんであの人タオル持ってんの?」
と尋ねて終われたかもだ)
このように、タオルという小道具一つで、
ドラマができたのに、
とてももったいない。
「炎の友情」は絵にすることができないが、
「炎のタオル」は絵にすることができる。
それに、友情や愛情を象徴させることが可能になるわけだ。
一枚のタオルで、
全てがうまいこといったのに。
もったいない。
2019年01月14日
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