2019年01月14日

ロッキーはタオルを投げるべきではなかったか(「クリード2」批評4)

ロッキーの内的問題は、
アポロのセコンドについた時、
「タオルを投げずに、アポロを殺してしまったこと」だ。

これの解消が行われていない。

以下ネタバレ。


ラストの試合、
セコンドのドラコがタオルを投げるのは、
すごくいい場面だと思った。
あれで親子の信頼を見た気がした。

こんな美味しい役を、ドラコにやらせていいのか?

そもそも、
ロッキーの内的問題、
「息子に会っていないこと」は、
感情移入に値しない。
今回の試合となんら関係ないからね。
全部カットしても問題なかっただろう。

より根深い問題は、
ロッキーがタオルを投げなかったことで、
主人公クリードの父を(結果的に)殺したことだ。
親友の思いがわかったからこそタオルを投げなかった、
ということを、ロッキーは息子に言っていない。

この辺りの葛藤を、
なぜ盛り込まなかったのか、分からない。


今回の大きな構造は、
チャンピオンになる、
挑戦を受けて負ける、
リベンジする、
の、
トップ→どん底→トップ
の構造である。

どん底の部分で「ロッキーがセコンドにつかない」があり、
そのあとの駆け上がりに「ロッキーと組む」がある。

この部分を、
「ロッキーがセコンドについたがタオル投入で負け」
→決裂、
というドラマを作ることができたはずだ。

ロッキーがタオルを投入する気持ちは誰もがわかるし、
まだやれるのにロッキーに止められた男として、
アドニスはプライドが傷つくはずだ。

ここで決裂すればどん底をつくれる。
あとは、
「タオルを投入することは、家族同然なら当然」
と、家族として理解し合うまでを描けば、
今回の「家族」というモチーフをテーマにできたかもしれない。

たとえば、
「娘がボクサーになったとして、
あなたがセコンドについたとする。
娘の闘志は衰えていないが、
状況は不利。闘志があることで命が奪われるかもしれない。
その闘志を折れるのは、あなたのタオルしかない」
と嫁が言えばどうだ?
「またセコンドを頼みたい。
タオルを投げるのは、あんたに委ねる」
と、熱い復活劇を作れたのではないだろうか?

そうすれば、
クライマックスの、ドラコのタオル投げは、
さらに素晴らしいドラマになっただろう。
戦闘マシンの中に人間を見るからだ。

ついでに、
ラスト、息子の家の玄関の外で、
チャイムを押す勇気の出ないロッキーに向かって、
「早く行けよ。ダメそうだったら俺がタオル投げる」と、
アドニスがついてやることが出来たかもしれない。

(さらについでに、
息子が窓の外で待っているアドニスを見て、
「なんであの人タオル持ってんの?」
と尋ねて終われたかもだ)


このように、タオルという小道具一つで、
ドラマができたのに、
とてももったいない。
「炎の友情」は絵にすることができないが、
「炎のタオル」は絵にすることができる。
それに、友情や愛情を象徴させることが可能になるわけだ。

一枚のタオルで、
全てがうまいこといったのに。
もったいない。
posted by おおおかとしひこ at 14:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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