2019年01月18日

障害

障害が多い方が燃える、という。


今回は僕の実話から。

僕は映画音楽を中心にCDを集めていた。
仕事でも使うし(イメージ曲のサンプルに利用)、
単純に映画が好きだからだ。

CDを買わなくなって久しい。
今では検索すればたいていYouTubeに転がってるし、
検索も楽だ。
その場でデータも買える。

CDの頃は、
「あの映画のあのサントラのこれの感じ」
というような覚え方をしていた。
だから、「この映画はこのような音楽構成になっている」
ということを理解しないと記憶できなかった。
つまり、点でなく線で、音楽を記憶・理解・分類していた。

ネット時代は、検索は便利だけれど、
点でしかリーチ出来ず、
線で理解することを失っている。


ところで、
僕がとても好きな曲がある。
「アメリ」という映画を見て衝撃をうけ、
そのサントラを買った。
本編未使用のピアノ曲があって、
その哀しみのような、静かに時を見つめるような距離感がとても好きだった。
CDウォークマンで聴いてたし、
iPad miniにも入っていた。

少し時は進んで、
「グッバイレーニン」という映画を見たときに、
その曲がかかる。
サントラを買うも、その曲は入っていない。
おなじ音楽監督、ヤン・ティルセンという人が担当していることを、
映画雑誌から入手。

当時ネットで調べるほどネットは発達していない。
情報源は専門誌しかなかったね。
メジャーな情報はぴあから、
マニアックな情報は映画秘宝、キネ旬、クレア映画特集
あたりからだった。
それらのバックナンバーを探って、
ヤン・ティルセンに関する情報を探す。
検索ワードなど使えないから、
ページをめくって目で探すしかない。

CDショップに行って、
ヤン・ティルセンの他の音楽も探してみる。
他にサントラは担当してないだろうか。
ピアノ曲だから、クラシックをやってたりしないだろうか。
足で情報を探しに行った。

総合的に分かったことは、
ピアノ曲は自宅録音のため、
スタッフを極力入れずにやる変人ぶりと、
日本で(当時)他の曲は入手できないということだ。

僕の好きなその曲のタイトルは、
「Comptine d`un autre ete」。
こうやって、足で探したものだからこそ、
この曲が好きだし、
今でも作品のイメージ曲にすることがある。
「いけちゃんとぼく」の、
雨の殴り合いのシーンでは、この曲を編集中に当てていた。


いまなら、
これらの障害はないだろう。
「アメリ ピアノ サントラ」あたりでググれば簡単に曲名がわかる。
それが分かればその言葉で
(フランス語の意味がわからなくても)検索すれば、
購入まで2秒だろう。

障害はない。
しかし、「その曲と紡いだストーリー」があるだろうか?

本編未使用の謎のピアノ曲。
それが別の好きな映画で使われていた発見。
情報の出てこない謎のピアニスト。
それらの点を線で結び、
自分の大切なところにしまっておくこと。

そして、その障害を越えようとする、
動機(=好きであること)の強さそのもの。


障害を超えることだけがストーリーではない。
「そうまでしてそれをやる」ほどの、
動機の強さこそが肝心だ。

僕は、障害を超えるほどにこの曲が好きだ。
障害を超えたからこその愛着もある。
だから自分の血肉になるまでこの曲を聞いたし、
その周辺の知識も忘れることがない。
つまりこの曲は僕の一部だ。


今、検索して2秒でこの曲をゲットしたとしても、
そんなに好きになることもないだろう。

そもそもこれを思い出したのは、
弊社のオープンスペースでこの曲が流れて、
「映画サントラ選」みたいなのに登録してたからだ。
もし知らないときにこれがかかって、
いい曲だと思っても、
その画面を写メって、検索して、ゲットして、
何回か聞いて、ハードディスクの底に忘れられるだろう。



障害がある方が燃えるという。

そこまでしてやるか、
ということと、これは関係している。

動機は強いか?
それだけ好きか?(嫌いか?)
何のためにそこまでしてそれをするのだ。

そして動機を試すかのように、
壁はさらに高くなる。

その、
障害、動機、乗り越え方のプロセス、
三位一体が、
ストーリーという線を構成している。

検索2秒は、点であり線でなく、
つまりはストーリーにならない。



これらから見ると、
ストーリーになることは、
「ネットでは解決できないこと」を、
線にするといい、
ということが導かれる。

もちろん、「ネットのない時代/場所」に設定するのもよい。


ケータイが出てきてドラマはつまらなくなったと言われた。
障害の解消が楽になったからだ。
ネットはさらに障害を減らした。

わたしたちは、逆に、
障害のある方へ、障害のある方へと、
物語をもってゆく。


ネットネイティブで苦労知らずに生きてきた若者が、
ストーリーを書けないのは当然だともいえる。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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