2019年01月21日

真のヒーローストーリー(「ミスター・ガラス」評3)

ブレイクシュナイダーは、
「ヒーローストーリーとは、
普段自分の力を発揮できる場に恵まれていない、
と思う者が見るものだ」
という洞察を残している。

今男たちは、戦う場を奪われている。
これは、本当に戦いたいのに、
誤解を受け続けた男たちの物語だ。

以下ネタバレ。


別に骨折しまくる肉体を持たなくとも、
鉄の扉をぶちやぶれなくとも、
ビースト人格がなくても、
人は誤解されて生きている。

本当の自分は理解されず、
受け入れられない。
それは自分のせいなのだろうか?
他人は楽しそうに、生き生きと過ごしている。
彼らは自分となにが違うのだろう?

アドバイスをくれる人は、
自分の本当の姿を隠して、
いわば嘘をついてでも、
社会に合わせろという。
誰も本当の自分をわかってくれない。


今、ほとんどの男は、そのような孤独の中にいると思う。
リア充である男以外は、
みんなそこにいる。

彼らはヒーローになりたい。
世の中の理不尽や悪を糾し、
世界を良い方向に変えたい。
にも関わらず、
自分の力は誤解され、
不満を持ち続けたまま、満員電車に揺られている。
まるで牢獄だ。
俺たちは、幽閉された、力を恐れられたヒーローだ。


そう思っている人々に、
この映画はストレートに響くだろう。


すさまじいIQだが骨折し続ける男は、
傷つきやすい心の象徴だ。
鋼の肉体は、簡単な水が弱点だ。
ビーストは、弱い心を守るための城壁だ。

皆強烈な弱点があり、
それが長所と引き換えになっている。

この映画を見る男たちは、
彼らのような長所があるかどうかは分からない。
しかし、彼らと同様傷つき続けているはずである。

だから、自分にも眠っている力を、夢想する。

ラスト、
カメラのどんでん返しのために、
大阪タワーに行かなかったことが、
日の当たる場所に出る勇気のない、
リア充の前で縮こまる我々を象徴している気がした。
(もちろん、スパイダーマンみたいな予算がないこともあるけど。
ブルースウィリスといえば豪華ビルなのにねえ)

それでもネットという武器で知られていくことも、
我々を象徴しているような気がした。

我々は理解されたい。
それが、ヒーローの動機である。



もし、そのへんに、
そのような男たちがいたら、
彼らを理解するべきだ。
彼らは弱点をその理解で覆い、
長所を発揮することだろう。

多くの、誤解されているままの男は、
この映画でガス抜きをしておしまいだろう。

この映画を見た多くのヒーロー予備軍よ。
ヒーローにならなくていい。
ヒーローを目覚めさせる側になってもいいんだぜ。
ミスターガラスは、それを望んだ。

「それは精神疾患なのだ」
と言い続ける博士が、女なのがすごいよかった。
俺たちはああいうババアを、
本当に信用してないね。

我々は何者かに封じられている。
それは謎の組織の陰謀なのだ。
そう思うのは勝手だ。

しかし現実にはそんな組織はいない。
鎖を外すのは自分自身であるべきで、
あるいは、誰かの鎖を解き放つべきだ。
ヒーローはヒーローだけが理解できる。

それは、孤独な者は、孤独な者だけが理解できる、
ということと同じかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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