これをすぐに忘れてしまうのは、
稀によくある。
大体つまらないパートになってくると、
そこがつねに曖昧になってしまっている。
今〇〇が問題である、
ないし、
今〇〇が〇〇をしようとしている
(あるいは、〇〇は〇〇の〇〇を止めようとしている、など)、
ということは、常に明らかになっていないといけない。
それは、毎度毎度説明せよ、ということではなく、
「登場人物がそれらを念頭に動いているか」
ということを意味する。
彼らが自分のただ言いたいことを言ったり、
ただやりたいことをやっているのは、
ただのカオスだ。
いま〇〇が問題だから、
こういうことを言ったりこういうことをやるのだ、
ということでなければ、
それはストーリーとはいえない。
あるいは、
いま〇〇が〇〇をしようとしているから、
こういうことを言ったり、やるのだ、
ということになっているべきだ。
この状態であることを、
「焦点がはっきりしている」という。
誰が何目的で、何をしようとしているんだっけ。
それはなんでだっけ。
詰まらないストーリーは、そこを常に見失う。
焦点がはっきりしていても、
たいして面白く無い(興味が持てない、感情移入していないこと)、
ということはあるが、
面白いストーリーはすべからく焦点がはっきりしている。
もちろん、
〇〇が常にはっきりしていなくてもよい。
意図的に「一体どうなるのだ?」と、
一部伏せられていることが強烈な興味になれば、
それは面白くなる可能性がある。
たとえば、
「ミスター・ガラス」の、
ミスターガラスの「何をたくらんでいるか」は、
最後まで明かされずわくわくした。
一方「映画刀剣乱舞」の、三日月の、
真意を隠している状態は、とてもつまらなかった。
(だから明かされても、ふーんとしかならない)
何がちがうのか。
その伏せている状態で、
ほかの登場人物の焦点がはっきりしていたり、
〇〇が問題であるとはっきりしていたりしていて、
ストーリーの進む方向性自体は明確に、
あったかなかったかだ。
前者では、
「三日以内に精神病から厚生しなければ、この幽閉が一生続く」
と最初から期限を用いて、
「誰がなにを考えているのか」が伏せられたまま、
緊張感が保たれていた。
後者では、
歴史が変わってしまったことまでは分ったが、
どうしたらいいのかについては伏せられていて、
ストーリーが迷子になっていた。
(観察ばかりしていたような印象)
その差だ。
まあ、両方見る人は稀だろうから前者だけ見ていればよいが。
(もちろん、後者も見たうえで、
自分ならどう面白くできたかを考えることは、
脚本的トレーニングになる。
つまらないものと面白いものを比較することで、
違いを明確に分析することが可能になったりする)
焦点をはっきりさせるということは、
常にやっておかないと、
ほんとうに分らなくなる。
リライトを重ねると、
その前提が崩れていたりして、うまく繋がらなかったりする。
いま〇〇が問題で、
登場人物はそれ前提で考え、行動しているかを、
つねにチェックしておきたい。
2019年01月22日
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