2019年01月30日

楽できるかもしれない

これは一種の詐欺である。


こんな簡単なもので、
おれ、モテるかもしれない。
おれ、儲かるかもしれない。
おれ、最強になれるかもしれない。
おれ、尊敬されるかもしれなない。

そう思えるものには、お金が動く。
それはそう思うことにはお金を出して、
その続きを見たくなるからだ。

商品販売ならば、
結局個人の感想ですになって、
ああ騙されたという詐欺になる。

物語の場合はどうか。


楽できるかも、と引きつけることはよくある。

「憧れのあの子とこんな美味しいシチュエーションに?」とか、
「最強のカードをたまたま手に入れて…」とか、
「自分が流行りに乗れて…」とか、
そういう入り口にすることはよくある。

引きつけが上手くいくので、
こういう出だしを好む人もいるかもしれない。

古来から、たとえばアラジンのランプのように、
スーパーパワーを持った者と出会うことで物語がはじまる、
というのはひとつのパターンだろう。
(身近な例ではドラえもんがそうだ)

で。

じつのところ、
この先を展開させることは、
非常に困難であることを覚えておくといい、
というのが本題。


楽できるかも、とはじまって、
楽して終わったら、
ただの「ラッキーな人」の話でおしまいだ。
なんの教訓もテーマもない。
しかも、人は、他人が苦労もなく幸せになると、
嫉妬したりする生き物だ。

「気になるあの子と美味しいシチュエーションに?」
ではじまって、
「やったー!セックス成功!」
と、ラッキーで終わったら、
ストーリーとしてはクソだということである。

楽できるかも、ではじまったストーリーは、
必ずそれがゆえに最悪の状態に陥る。
起伏だ。

あがったものは、一回落ちる。
0からプラスになったら、
0に戻るよりもマイナスになったほうが、
落差として面白い。

なので、ラッキーではじまったストーリーは、
必ず最初より状況が悪くなったほうが面白い。

ドラえもんの場合、
ラッキーなる全能アイテムの過度の使用により、
たいていバッドエンドになるように出来ている。
それをギャグとすることによって、
人の安易さを戒めているわけだ。

のび太の成長にとって不可欠な、
堕落性の自覚という点では分かりやすい構造だ。
(問題は長期化しすぎてしまったせいで、
パターンに陥り、のび太の成長がなくなってしまったことだが)


ハッピーエンドになるべき映画ストーリーでは、
つまりこの最低の状況から、
ラッキーに頼らず、
自力逆転しなければならない。

つまり結局は、
マイナスをプラスに変える、
成長のストーリーを創作しなければならない、
ということだ。

これを描く実力がない人間が、
楽できるかも、というストーリーの出だしに飛びつくから、
たいてい途中で挫折してしまうのだ。


実力のある人間ならば、
マイナスからプラスに大逆転する、
成長のストーリーを先につくっておき、
最初の転落のきっかけに、
その「楽できるかも」の安易な心の部分を使うだろう。


つまり、
「楽できるかも」ではじまったストーリーは、
バッドエンドに終わるか、
うまくいかないエンドになる可能性が高い、
という結論になる。

僕は、これは詐欺だと思っているわけだ。


きちんとしたストーリー展開を考えているならば、
そんな安易な出だしを選ぶことはないだろう。
あとで難しいことになるのは目に見えている。

見えてない実力不足者か、
出だしで人気を得て逃げ切ろうと詐欺をする悪意のある者が、
「楽できるかも」という出だしを選ぶだろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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