これは一種の詐欺である。
こんな簡単なもので、
おれ、モテるかもしれない。
おれ、儲かるかもしれない。
おれ、最強になれるかもしれない。
おれ、尊敬されるかもしれなない。
そう思えるものには、お金が動く。
それはそう思うことにはお金を出して、
その続きを見たくなるからだ。
商品販売ならば、
結局個人の感想ですになって、
ああ騙されたという詐欺になる。
物語の場合はどうか。
楽できるかも、と引きつけることはよくある。
「憧れのあの子とこんな美味しいシチュエーションに?」とか、
「最強のカードをたまたま手に入れて…」とか、
「自分が流行りに乗れて…」とか、
そういう入り口にすることはよくある。
引きつけが上手くいくので、
こういう出だしを好む人もいるかもしれない。
古来から、たとえばアラジンのランプのように、
スーパーパワーを持った者と出会うことで物語がはじまる、
というのはひとつのパターンだろう。
(身近な例ではドラえもんがそうだ)
で。
じつのところ、
この先を展開させることは、
非常に困難であることを覚えておくといい、
というのが本題。
楽できるかも、とはじまって、
楽して終わったら、
ただの「ラッキーな人」の話でおしまいだ。
なんの教訓もテーマもない。
しかも、人は、他人が苦労もなく幸せになると、
嫉妬したりする生き物だ。
「気になるあの子と美味しいシチュエーションに?」
ではじまって、
「やったー!セックス成功!」
と、ラッキーで終わったら、
ストーリーとしてはクソだということである。
楽できるかも、ではじまったストーリーは、
必ずそれがゆえに最悪の状態に陥る。
起伏だ。
あがったものは、一回落ちる。
0からプラスになったら、
0に戻るよりもマイナスになったほうが、
落差として面白い。
なので、ラッキーではじまったストーリーは、
必ず最初より状況が悪くなったほうが面白い。
ドラえもんの場合、
ラッキーなる全能アイテムの過度の使用により、
たいていバッドエンドになるように出来ている。
それをギャグとすることによって、
人の安易さを戒めているわけだ。
のび太の成長にとって不可欠な、
堕落性の自覚という点では分かりやすい構造だ。
(問題は長期化しすぎてしまったせいで、
パターンに陥り、のび太の成長がなくなってしまったことだが)
ハッピーエンドになるべき映画ストーリーでは、
つまりこの最低の状況から、
ラッキーに頼らず、
自力逆転しなければならない。
つまり結局は、
マイナスをプラスに変える、
成長のストーリーを創作しなければならない、
ということだ。
これを描く実力がない人間が、
楽できるかも、というストーリーの出だしに飛びつくから、
たいてい途中で挫折してしまうのだ。
実力のある人間ならば、
マイナスからプラスに大逆転する、
成長のストーリーを先につくっておき、
最初の転落のきっかけに、
その「楽できるかも」の安易な心の部分を使うだろう。
つまり、
「楽できるかも」ではじまったストーリーは、
バッドエンドに終わるか、
うまくいかないエンドになる可能性が高い、
という結論になる。
僕は、これは詐欺だと思っているわけだ。
きちんとしたストーリー展開を考えているならば、
そんな安易な出だしを選ぶことはないだろう。
あとで難しいことになるのは目に見えている。
見えてない実力不足者か、
出だしで人気を得て逃げ切ろうと詐欺をする悪意のある者が、
「楽できるかも」という出だしを選ぶだろう。
2019年01月30日
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