スプリットの削除シーンを見た。
サブプロットが実に興味深い。
全部ネタバレしないと解説できないので、
評論カテゴリにする。
ばあさんの心理学者のサブプロットが、
主に削除されたものであった。
黒人の脳生理学者と多重人格患者について話し、
ふたつの結論にいたる。
・超能力を信じる人格は、超能力を出せるのではないか?
・あなたが好きだが、ふられたこと
前者はあったほうがわかりやすかったが、
「ビースト」が超能力かどうかは異論の残るところなので、
なくてもいいかもしれない。
(予告編とかには使いやすいよね)
プラシーボの話や、
特定の人格だけ糖尿病になり、
インシュリン注射をしている科学的ファクトに基づいた、
実にファンタジックなアイデアだと思う。
ていうか、おそらく、
この映画の核になるアイデアだ。
アンブレイカブル三部作は、
「劣った者は、
それゆえに何かを先鋭的に進化している可能性がある」
ということをモチーフにしている。
多重人格は、
本体(ケヴィン・ランデル・クラム)を守るために発達した、
一種の防衛壁だ。
それを更に進化させたものがあるのではないか、
というのがビーストのアイデアの核となっている。
しかし、それを全部カットしたとしても、
説明がなくても想像がつく内容であり、
「ビースト人格」と名前をつけるだけで了解するものではある。
ということで、前者はカットしても良いだろう。
(おそらく、ナイトシャマランも同じ議論をしたことだろう)
問題は後者だ。
ばあさんの恋心の切ない感じ、
歳をとったからこその抑制された恋心、
それが破れた故に、
より患者にのめり込む感じ。
このターニングポイントがとても良いだけに、
カットが惜しまれる。
これがない場合、
彼女は純粋な、「患者に興味がある人」でしかない。
深淵を覗きすぎて、深淵に取り込まれてしまった人のような。
黒人に振られる前は、深淵に取り込まれず理性を保っていたが、
振られたことを契機に、深淵にのめり込む、
という方が、狂気が出て面白かったなあ。
僕は先に「ミスターガラス」を見てしまったので、
そこに出てきた女性心理学者とキャラが被ってしまってるのが、
とても惜しいと思った。
彼女の正体が明かされるまで、
黒人の件がないと、
同じキャラクターになってしまい、
そこが勿体ないと思ってしまった。
まあそこはシャマランも感じていた部分だろう。
それよりも、
箱に囚われた三人の娘と、
マカヴォイの狂気の演技に集中させたほうが、
焦点を維持できる、
という方を取ったのだろう。
こうしたサブプロットの必要不必要は、
脚本段階で判断することはとても難しい。
あったほうが、
人物や世界が豊かになり、
対比的なことにも使え、
サブプロットのターニングポイントが、
メインプロットの行動を促すこと
(振られたから患者にのめり込む、
悲劇が悲劇を産む)が、
可能になるからだ。
だからおそらくシャマランは脚本に書き、
撮影し、編集した上で、
カットするべきかどうか悩み、
惜しくもカットしてしまったが、
この世に残したいと思って、
削除シーンに入れたのだろう。
カットされたシーンは、
きちんとカラコレされず、音もミキシングされない。
しかし削除シーンは全て本編同様きちんと仕上げてあった。
これには予算が必要で、
通常日本映画ではここは出ない。
邦画監督は、最後まで迷う権利がない。
ひとつのサブプロット。
これがある場合とない場合で、
話がどう変わってくるか。
豊かに、自然になるが、焦点への集中がそがれるか?
やや不自然に、狭い世界になるが、焦点への集中は可能になるか?
理想は、脚本段階でカットするかどうかが判断されることだ。
サブプロットはいくらでも発想することができ、
メインプロットの焦点を気にしなくていいなら、
無限に追加することは可能である。
「この物語は何を見せるものなのか」を、
常に考えていないと、
サブプロットに逃げ込んでしまう心理がある。
(メインプロットに自信がなくなる)
この罠に落ち込まなかった、
スプリットの編集は、賞賛されるべきだ。
2019年02月01日
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