ストーリーにはひねりが必要だ。
しかしひねりを使えるには、王道が出来なきゃ意味がない。
カーブを投げられるようになるには、
ストレートが投げられないと意味がない。
ストレートで来ると思っているところにカーブが来るから、
カーブは意味がある。
カーブしか来ないとわかっていたらカーブの効果は0だ。
面白いストレートな話がそもそも出来ないのに、
カーブを投げようとしてはいけない。
何がひねりかわかるためには、
何がストレートか知らなくてはならないし、
ストレートが書ける必要がある。
豪快なストレートを投げられるだけの実力がないと、
カーブが効果的に働かない。
若いうちは、
「ただストレートが出来たって意味がない。
特殊なカーブの使い手こそ意味がある」と考えがちだ。
しかし、
ストレートを投げる実力がないから、
カーブがちょっと投げられるだけで、
「カーブを投げられる自分」が、
自分のアイデンティティだと勘違いしがちである。
得意技が自分自身だと勘違いしがちだし、
目立つことでアイデンティティを得た気分になってしまう。
しかしそれは、
奇策ばかりやる人でしかなく、
本当に腹にずしりとくる、ストレートな話を書けないことからの、
逃避行動でしかない。
この心理を理解した上で、
ひねりを使いこなそう。
つまり、ひねりを変速のリズムに使うのだ。
順当なリズムは、三幕構成や、
緩急を作ることで得られる。
しかしストーリーの形が、
毎回この通りになるわけではない。
そうだとしたら、
三幕構成で語られる形しかストーリーではないということになってしまう。
ストーリーとはもっと多様であるべきだ。
だから、ひねりを入れて、
伝統的リズムから逸脱することで、
三幕構成に収まらない話をつくっていくことが出来る。
ひねりはテクニックではなく、
そうとしか話せないストーリーを表現するためにある、
と考えるべきだ。
そして、
ひねっているのに、時々王道になると、
人は次カーブが来るのかストレートが来るのか予測できず、
ハラハラする。
いい球筋を二つ持たないと、
ひねりは意味がない。
たとえば、「ジョジョの奇妙な冒険」は、
モチーフこそひねりまくった、
表現こそ奇妙にねじくれたものであるが、
ストーリー仕立て自体は王道だ。
ひねりをどこに効かせているのか、
分析してみるといいだろう。
(といっても4部までしか知らないけど)
たとえば、
「アンブレイカブル」「スプリット」「ミスターガラス」
の三部作において、
何がストレートで、何がひねりかを分析してみよう。
誘拐事件やカウンセリング、
という、事件自体がとてもストレートなものなのに、
その枠組みの中で行われている、
「動機そのもの」にひねりが効いている
(=普通じゃない)。
しかしよくよく考えてみると、
「劣った人間は、その分何かが優れているかも知れない」
と思うこと自体は、
誰にでも当てはまる、ごく普通の感情だ。
ひねりが効いてると思わせて、
芯のところはえらく王道な感情で、
しかし俯瞰してみると、全体は奇妙にねじれた感じがする、
この、ひねりと王道の迷宮が、
シャマランの最大の魅力だと僕は思う。
これくらいやれて、
はじめてひねりは面白くなる。
この程度にひねりを効かせられないなら、
大人しく王道の面白い話を極めて、
小ひねりをスパイスにしたほうがいいかも知れない。
七色の変化球の使い手は、技に溺れがちだ。
技を見せることが娯楽なのではなく、
深い感動を与えることが娯楽であると、
手段と目的を取り違えない方が良い。
この文章は「ひねり」という糸口から考えながら書いている文章なのか、頭の中で「ひねり」についての考察の全体像ができあがった上で書いている文章なのか、どちらですか?
全体の考察が先にあります。
しかし言語になっているわけではないです。
全体像が先に非言語として存在し、
それを言葉で彫り出していく感覚ですかね。
仏師が木の中に仏像を見出すまでイメージを高め、
あとは刃物で彫り出していく感覚に近いかもです。
あとは経験的に「今なら書ける」という身体感覚があります。
それは「この溝はジャンプして超えられそうだ」
という感覚に近いですね。
この感覚があるとき、最後まで書けます。
ただ、このような文章の書き方には人によってパターンが異なることが、最近知られてきました。
たとえば脳内発声(内語)がある人とない人がいるそうです。
僕は内語がなく思考をするタイプなので、
言語はあとからついてくる感じです。
薙刀式の過去記事で、
脳内発声について詳しく書いたりしたので、
そのあたりについて知りたければ検索を。