奇策を弄して目立ってもしょうがないよ、
という話。
なぜなら、
世間はどこかで目立ったものを呼んできて、
「同じことをしてくれ」と頼むからである。
呼ばれた側としては、
毎回同じことをしても詰まらないからアレンジしようとするし、
そもそも自分はもっと別のことを出来るからそれを披露したいし、
目立ったのは奇策の為で、本当にやりたいことを通すための手段だと考えている。
しかし呼ぶ側の論理はひとつだ。
「同じことをしてくれ」だ。
そして、それが飽きられた頃、
お払い箱になり、
次の目立った人に、「それと同じことをしてくれ」
と頼みにいくだろう。
呼んでくれた人に、
チャンスだから自分の才能を認めてもらったり、
自分の才能を開発してもらおうと、
期待してはならない。
呼ぶ人にそこまでの度量はない。
呼ぶ人と呼ばれた人の間には、
このような深くて混じり合えない溝があることを、
まずは理解せよ。
丹下段平はいない。
いたとしても、彼はホームレスで橋の下を不法占拠した、
ただのいかれポンチだ。
背広を着て真っ当な会社に勤めた人ではない。
呼ぶ人は、目立ったそれで呼び、
違うことをすれば違ったと捨てる。
ただそれだけだ。
あなたは、
泥のような創作者の群れから、
目立ち、いつかどこかに拾われようとしているだろう。
そのためには、奇策を弄するのもやぶさかではないと。
しかしそれで目立ったからといって、
それがあなたのやりたいことだろうか?
僕はコントはやりたかったが、
子供の演出には興味がない。
しかしオカッパ頭のクレラップでヒットを飛ばして、
業界で目立つことになった。
だが、
いろんな人からの呼ばれ方は、
マクドナルドのハッピーセットで子供が喜んでるだけとか、
ピカピカの一年生で子供が笑ってるだけとか、
進研ゼミで子供が勉強してるだけとか、
「子供が出てはいるがコントではない」というものだった。
クレラップの何を見てそんなものを頼むのだろう。
この何にもない台本に、
コントの味付けをせよという依頼だったわけでもない。
いや、頼む側はそれを期待したのかも知れないが、
僕のところまで1ミリも届いていない。
ノー台本の子供のアップばかりのコンテだった。
僕はコントとして目立っていたと自負したが、
どうやら世間は子供演出家として目立っていると、
解釈したらしい。
この差は一体なんだろう、
と、時々思う。
その後、クレラップを見たGEの人に声をかけてもらい、
色々と珍奇な企画作業をやる中で、
僕のドラマ構築の力を買ってもらって風魔を作った。
縁といえばそれまでかもしれないが。
奇策を弄して目立つのは、
最悪ではないにしても、悪手だと思う。
席を確保することが重要だとしても、
その席に座り続けなければならない。
あなたは、
自分の座るべき椅子を、きちんと用意される必要がある。
間違った席に座らされているか、
よく周りを見ることだ。
どうやって目立つのか。
実力で目立つべきであり、
奇策で目立つべきではないと思う。
これは人生観の問題だから、
そうじゃないと思っても構わない。
実力を磨くには、
僕はたくさん書くしかないと思っている。
素振りを続けた人だけが、ホームランを打てる。
2019年02月09日
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