2019年02月09日

どうやって目立つべきか

奇策を弄して目立ってもしょうがないよ、
という話。


なぜなら、
世間はどこかで目立ったものを呼んできて、
「同じことをしてくれ」と頼むからである。

呼ばれた側としては、
毎回同じことをしても詰まらないからアレンジしようとするし、
そもそも自分はもっと別のことを出来るからそれを披露したいし、
目立ったのは奇策の為で、本当にやりたいことを通すための手段だと考えている。

しかし呼ぶ側の論理はひとつだ。
「同じことをしてくれ」だ。

そして、それが飽きられた頃、
お払い箱になり、
次の目立った人に、「それと同じことをしてくれ」
と頼みにいくだろう。

呼んでくれた人に、
チャンスだから自分の才能を認めてもらったり、
自分の才能を開発してもらおうと、
期待してはならない。

呼ぶ人にそこまでの度量はない。


呼ぶ人と呼ばれた人の間には、
このような深くて混じり合えない溝があることを、
まずは理解せよ。

丹下段平はいない。
いたとしても、彼はホームレスで橋の下を不法占拠した、
ただのいかれポンチだ。
背広を着て真っ当な会社に勤めた人ではない。


呼ぶ人は、目立ったそれで呼び、
違うことをすれば違ったと捨てる。
ただそれだけだ。


あなたは、
泥のような創作者の群れから、
目立ち、いつかどこかに拾われようとしているだろう。

そのためには、奇策を弄するのもやぶさかではないと。

しかしそれで目立ったからといって、
それがあなたのやりたいことだろうか?


僕はコントはやりたかったが、
子供の演出には興味がない。
しかしオカッパ頭のクレラップでヒットを飛ばして、
業界で目立つことになった。
だが、
いろんな人からの呼ばれ方は、
マクドナルドのハッピーセットで子供が喜んでるだけとか、
ピカピカの一年生で子供が笑ってるだけとか、
進研ゼミで子供が勉強してるだけとか、
「子供が出てはいるがコントではない」というものだった。
クレラップの何を見てそんなものを頼むのだろう。

この何にもない台本に、
コントの味付けをせよという依頼だったわけでもない。
いや、頼む側はそれを期待したのかも知れないが、
僕のところまで1ミリも届いていない。
ノー台本の子供のアップばかりのコンテだった。


僕はコントとして目立っていたと自負したが、
どうやら世間は子供演出家として目立っていると、
解釈したらしい。

この差は一体なんだろう、
と、時々思う。


その後、クレラップを見たGEの人に声をかけてもらい、
色々と珍奇な企画作業をやる中で、
僕のドラマ構築の力を買ってもらって風魔を作った。
縁といえばそれまでかもしれないが。



奇策を弄して目立つのは、
最悪ではないにしても、悪手だと思う。
席を確保することが重要だとしても、
その席に座り続けなければならない。

あなたは、
自分の座るべき椅子を、きちんと用意される必要がある。
間違った席に座らされているか、
よく周りを見ることだ。



どうやって目立つのか。

実力で目立つべきであり、
奇策で目立つべきではないと思う。

これは人生観の問題だから、
そうじゃないと思っても構わない。

実力を磨くには、
僕はたくさん書くしかないと思っている。
素振りを続けた人だけが、ホームランを打てる。
posted by おおおかとしひこ at 15:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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