昔からこのジャンルがあったことは知っている。
だがポーの一族もグッとは来なかったし、
パタリロは僕にとってはギャグ漫画だった。
しかし一定の人気が女子たちにあることは昔から知っており、
男子たる僕はずっと理解できていない。
ツタヤをうろうろしていて、
「インタビューウィズヴァンパイア」を見て、
そういえば大学の頃はやってたけど見なかったなあ、
と軽い気持ちで見てみる。
ふむ。耽美というのはこういうこと、なのか?
まず大前提として、
僕は男を美しいと思ったことがない。
女は美しいと思うが、男は仲間でしかない。
女は他者だが男は他者ではない。
女に性欲はわくが、男に性欲はわかない。
男は美しくない。
その感性でしか、僕は耽美を見ることができない。
残念だ。
耳の聞こえない人が、音楽を聴くようなものかもしれない。
僕の浅い理解でこの映画をみると、
中世ヨーロッパへの憧れ、
美しい男たちへの憧れ、
女への同族嫌悪、
少女はOK、
そして少女はわがままで何をやっても美しい男に許される
という要素が抽出された。
これはひょっとすると、
男性作家におけるメアリースーの対称型ではないかと感じた。
メカや戦闘や魔法やモンスターへの憧れ、
美しい女たちへの憧れ、
イケメンへの同族嫌悪、
主人公は何も出来ない童貞だが、
何をやっても美しい女たちに許される
というのが、
男性作家の欠点とも言える、
メアリースー症候群の特徴である。
これは中二病とも関係があって、
「幼児的な全能感を全開させたいのだが、
現実にはうまくいかないことを知っているので、
何か別のもの(メカや魔法などの漫画的な)世界に、
置き換えて表現する」
ということと関係している。
男がメカや戦闘、
女が中世ヨーロッパや社交界や演劇や吸血鬼、
とジャンルは違うものの、
構造はどうやら同じではないか?
ということに感づいた。
なるほど。
女が喜ぶ耽美なるものは、
男が喜ぶハーレムチートなろう小説と、
対をなしているのかもしれないぞ。
その世界には、
美しい異性しかでてこず、
ブサイクな異性はでてこない。
世の中には美しい人しかいないわけではないから、
美しい人同士が関係することはなく、
ブサイクな人たちとも関係しなければならないが、
そこをごっそりと欠落させているわけだ。
男性作家が異性をちゃんと描けているか、
というテストに、
「女性同士の会話場面があるか」と、
「その話題が男のことや家事のことではないか」
という方法がある。
つまり、男性作家は、
女性を、性の対象、家政婦としての対象以外に、
人間として認識していて、
人間として描けているか、
ということを問うテストだ。
僕はこれにパスする自信がない。
いや、風魔では何度か姫子と蘭子の会話を書いたけれど、
それは原作ありきだからなんとかなったわけで、
オリジナルキャラクターでそれをやるのは、
まだ恐怖感がある。
女子会を描く自信もないね。
で、耽美というジャンルは、
女性たちのそれなのかもなあ、
と、やっと理解できてきたわけだ。
これを考慮すると、
映画刀剣乱舞の、メアリースー的部分に、
僕は嫌悪を感じたわけだね。
僕は美しい男を、美しいとも思わないし、
性の対象にも憧れとも感じない。
戦闘要員として役にたつかどうかで、
男を見ているふしがある。
なのに戦闘要員として描かれず、
耽美の対象、美を愛でる対象として描かれていることに、
僕は生理的嫌悪感を抱いたのだろう。
これは以前にも書いたことだが、
僕がBLを生理的に嫌うのは、
自分が性の対象にされている嫌悪感を感じるからだ。
もちろんBL好きな人は僕をそんな対象にするわけもないのだが、
僕は生理的に被害妄想をするわけだ。
これは、目の前に女性がいても下ネタを話すことと、
対称をなしている。
別にあんたの下にはなんの興味もないのだが、
俺たちはおっぱいの話をしたいんだ、
ということと対称をなしていると思われる。
だから、
映画刀剣乱舞においては、
刀は人を切るために生まれたのに、
見世物にされていることが、
とても嫌だったのかも知れない。
その嫌悪感の正体がわかったので、
そのベールを剥がすことは、
僕もプロなので出来る。
で、
耽美世界でやることといえば、
ラブストーリーなんだなあ。
インタビューウィズヴァンパイアにおいては、
「自分を導いてくれた男を描き、
その下から独立して、
他の男にも誘われたが断り、
最初の男にも戻るが幻滅する、
しかしその男は私を思い続けている」
という、メアリースー的な女の願望を読み取ることができた。
映画は行動の文学である。
主人公が自ら行動し、
世界をどれだけ変えたのかが、脚本である。
しかし全面的に受け身で、
流され続けて、しかし愛されるという、
「何もしたくないけど成功したい」
という願望をそのまま描くのがメアリースー症候群で、
それは映画の描くものではない。
(小説にはよくある。私小説など)
インタビューウィズヴァンパイアは、
女性作家の描く、
女の願望を、
メアリースー的欲望に徹底させた、
耽美フルコンボの映画であった。
なるほど、
当時は女子大生などに爆発的にヒットしたわけだ。
時代を下って映画刀剣乱舞。
これもつまりは、
メアリースー症候群の作品であると考えると、
成る程と合点がいった。
メアリースー症候群であるがゆえに、
その病を持つ人たちには爆発的に売れて、
それゆえにメアリースー症候群でない人からは、
幼稚過ぎると嫌われる。
そういう作品になっていた。
僕は、映画とはすべての人に開かれるべきものだと考えていて、
狭いマーケットに押し込めることが嫌いだ。
誰向けの映画であれ、
誰向けでもない、すべての人に向けたものであるべきだと考える。
そこにメアリースーは相応しくないとおもう。
流石に美少女ばかりが出てきて、
持てない俺を全面的に愛して、
最後はオレツエーする映画があったら、
女性は吐き気がするに違いない。
フェミたちがぶっこむから、
そんなものは公開しないだろうが、
しかし逆のものが堂々と公開されていることに、
鏡を見ろ、と警鐘を鳴らすことにする。
結局対称のことが起こっているぞと。
映画刀剣乱舞で気にくわないのは、
歴史タイムパラドックスがちっとも面白くないことで、
「バタフライエフェクト」「バックトゥザ・フューチャー」
「オーロラの彼方へ」「ターミネーター」などの、
先行タイムパラドックスの名作に対して、
あまりにもシナリオが矮小すぎる部分だ。
先行する邦画「タイムスクープハンター劇場版」
もショボかったのに、
それに輪をかけてショボいタイムパラドックスは、
目がショボショボする出来だ。
そのメインプロットがショボいのに、
なぜ女性たちは大興奮しているのだろうか、
と考えると、
美しい男が好きだからなんだなあ、
などと考える。
ということで、
耽美というものに、片足を突っ込んだ理解だ。
ほんとうにわかるには、
僕が男に魂を奪われるしかないかもしれないが、
女性の理解する耽美と、男の理解する耽美は違う、
といわれたらそれまでなので、
片足を突っ込むにとどめておく。
人は心の弱い部分を隠して生きている。
その傷ついた心を解放する場所を求めている。
それは、だれか人がやってあげるべきであって、
メアリースーを商売でやってはいけないと僕は思う。
弱い心につけこんだ商売だからだ。
自覚せざるとするまいと、
たとえばジャニーズのビジネスにはその匂いがする。
とくに楽曲の歌詞には、メアリースーの要素が濃い。
圧倒的支持が商売の理由だったが、
昨今のゴタゴタを見ると、その御殿も揺らいでいるのか。
耽美は逃避であるとも言われた。
逃避先を黙って見過ごすか、
そこに照明を当てて蒸発させるべきか、
僕にはわからない。
そっとしといて、という気持ちも分からないでもないが、
少なくともインタビューウィズヴァンパイアは、
僕には退屈な映画だった。
美しい男で僕の時間は止まらないので。
2019年02月09日
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