世の中の文房具屋の、筆記具を見よ。
鉛筆、ボールペン、マジック、シャーペン、万年筆。
一種類ではない。
各メーカーが書き味違いで、沢山沢山出している。
どれからでも選べるようになっている。
私たちは、書くときに、それほど手に合う道具を使う。
人間の手、とくに利き手というのは敏感で、
たとえば紙の薄さを手触りで見抜くことができる。
一枚では分からなくても、数枚重ねれば一発だ。
それはミクロン単位だ。
ミリでは大雑把すぎる。
ミクロン単位の、手触り、形、重さ、反発、
などを感じながら人は字を書く。
古今東西、それは同じだ。
自分に合っている筆記具を探すために、
人は文房具屋に通うし、
自分に合うブランドを見つけたら、
それを確保するために人は文房具屋に通う。
とりあえず今字をかけたらいいから、
と適当な筆記具を買って間にあわせることがある。
そのボールペンを、インクが切れるまで使うことはないだろう。
手に合わないものは、人は愛着をもたない。
僕は料理を頻繁にしないが、
料理人の包丁も似たようなものだろう。
世界最高のキーボードのひとつ、
ハッピーハッキングキーボードの作者は、
カウボーイの馬の鞍にたとえた。
残念ながらその鞍は僕には最高に合うものではなかったが。
JIS規格というものがある。
これは工業製品に適用されるもので、
同じ規格でつくったほうが、
大量生産できるからである。
キーボードも工業製品だったから、
JIS規格によってつくられている。
変換無変換キー、デカイエンターキー、109フルキーボード、
19ミリピッチ、おそらく押下圧も。
これらは、PCという工業製品の普及には役に立っただろう。
車のハンドルが大体同じ形をしていて、
アクセルが右足ブレーキが左足と定められているように、
どのキーボードも同じ形をしていることは、
工業製品としては大事なことだ。
だが、文房具は工業製品だろうか?
キーボードは工業によってつくられる。
しかしその使用目的は、文房具である。
文房具にJISがあるかどうかは知らない。
小学校で習う時の鉛筆にはありそうだ。
しかし我々はもはや自分に合う文房具というものを、
知ってしまっている。
画一的な鉛筆には戻る気がしないだろう。
それは強制である。
字を書くことは、その強制から逃れ、
自らの自由を希求する行為である。
しかるにキーボードは、
いまだに工業製品の強制をしてくる。
自由に文章を書こうとする者が、
なぜこの鎖に縛られなくてはならないのか?
なぜ効率の悪いqwerty配列なのか?
なぜJIS規格配列なのか?
なぜ19ミリピッチなのか?
なぜ左右分割しないのか?
なぜ55gなどというクソ重い押下圧なのか?
なぜ使いたいキーを近くに持ってこれないのか?
これは今の日本が柔軟性を失い、
硬直しているからに他ならない。
私は個人である。
日本とともに運命をともにする理由はない。
愛国心はあるが、
この馬鹿馬鹿しい強制には反対だ。
だから私はキーボードを自由にしたい。
僕の自由とあなたの自由は違う可能性がある。
あなたの文房具は僕の文房具に合わないかもしれない。
手も頭もセンスも、書く内容も違うのだ。
全部違っていいし、そこに優劣はない。
キーボードは文房具である。
工業製品ではない。
文房具屋にならぶ、数多の筆記用具のように、
キーボードはなるべきだ。
そして、その棚にないなら、
自分でつくるしかないのだ。
僕はqwertyローマ字の効率の悪さを悲しみ、
自作配列をふたつつくった。
これでかつては考えられなかった効率になっている。
同時にキーの押下圧にも詳しくなり、
キーの押し方も研究し、
キーの物理的並び方や高さの差、
手首の置き方や腕の置き方についても考えている。
すべては、自分の思う文を書くためである。
文は心だ。
私は、私の心を、最も自由に形にしたい。
そのための不要な強制を、
すべて拒否したい。
つまりキーボードを追求する行為は、
自由を希求する行為である。
Capslockはいらない。Numlockもテンキーもいらない。
ファンクション段も数字段もレイヤー対応レベルでいい。
記号の配置はもっと整理したい。
qwertyはいらないが、英語入力用に置いときたい。
(僕は日本語メインなので、英語用の配列を練習する意味がない)
英数かなの切り替えは、スペースキーの左右にあるMac方式がいい。
トグル?あほか。
親指エンターやコントロールは便利だが、
それすらホームキーでコントロールしたほうが便利(薙刀式の編集モード)。
そして、キー押下圧は軽いほどいい。
45gは重い。35か30も重くなってきた。
いまは20を目標にしている。
キーピッチは17ミリが理想。
人はなぜキーボードをつくろうとするのか。
強制の鎖を断ち切り、
自由になるためだ。
配列変更やキーボード沼を経て、
今自作ブームが来ているのは、
強制を拒否し、
自由を求める人が増えている証拠である。
なんのことはない。
キーボードが文房具屋にないから、
わたしたちはキーボードの文房具屋をつくっているのだ。
かつてはつくれなかったが、今はつくれる同志が横に繋がってきた。
PCはパーソナルコンピュータのことだった。
わたくしごとであった。
カスタマイズが前提だった。
なぜかマルチユーザや共用やクラウドになって、
おおやけのことになってしまった。
カスタマイズ禁止だ。
配列も変えられないし、キーボードもJISだ。
おかしなことだ。
僕は僕の、パーソナルな文房具がほしい。
マニアといつてもいいかもしれません。
手帳でもノート、取材でも、手書きはすべて万年筆を使ってます。
これは大岡さんがおっしゃるように、キーボードへのこだわりとまったく同じものです。
こちらでも、ペン先は柔らかいSがすきです。手帳はここ数年、ほぼ日手帳です。
僕は大学生のときに今でもそれしか使わないボールペン
(ぺんてるの中性青)に出会ったので、
万年筆沼に行かずに済みましたね。
今でも手書き原稿を書くときは指定の紙しか使わないし、
それはいつもカバンに入っています。
ワープロ以前の小説家は、万年筆に合う原稿用紙を指定していたようです。
滑りとか引っかかりが違うらしい。
そのこだわりがキーボードに継がれていないから、
不満因子が溜まっていると思われます。
書くという行為は、脳だけでなく身体運動も含むと考えます。