2019年02月15日

展開とは、サブプロットを始めることではない

展開は難しい。
ストーリーを始めることは簡単で、
落ちをつけることも慣れれば簡単だが、
十分な展開を考えることはほんとうに難しい。

で、難しいから、
ついサブプロットに逃げがち、という話。


冒頭に続いて起こるべきは、
そこから直結した展開である。

そこで出てきた人が、
そこで起こったことの、続きを追求する。

大抵は問題が起こっていて、
それを解決しようとしてなにかをするのだ。

展開とは、
時系列的に次の時間帯のことのみを意味しない。
「ストーリーが進むかどうか」が展開だ。


時間帯的に次だが進んでいない代表に、
お喋りがある。
ある時点の話と次の時点の話で、
二人の関係性が進んだとはいえない。

「口説けなかったバー」を思い出そう。
色々と口説く糸口を探そうとして、
色々な話をしてみるが、
核心にはたどり着かず、解散したとしよう。
これはストーリー(口説き)が進んでいない、
ただのお喋りだ。

もし口説くストーリーの中で、
「バーでうまくいかない」という場面があるなら、
ワンカットでよい。
「バーで口説こうとするも、女は退屈している」
と一文あれば十分で、
次のシーンは展開しなければならないだろう。


さて、本題。

この展開を考えるのが難しくて、
サブプロットを始めてしまう逃避行動がある。

口説くことにおいて、
なんらかの関係進展を上手に描くことができないから、
別の人物の事件に巻き込まれる「冒頭部」を、
書いてしまいがち、ということである。

一旦ストーリーを始めると、
始めること自体は「出来たこと」である。

人は出来ないことに出会って追い詰められると、
「出来たこと」に頼ろうとする。

だから、展開が出来ないと、
出来たこと=「ストーリーを始めること」
をやろうとしてしまう。

だから、
男がバーで口説けなかったシーンの次に、
いよいよ進展するシーンを描くことが出来なくて、
ライバル登場シーンとか、
その頃友達はこういうことをしていて事件に巻き込まれ、とか、
ヒロインの実家では遺産相続が持ち上がり、とか、
本筋のAストーリー(口説く)から離れた、
別のBストーリー、Cストーリー、Dストーリーを、
始めがち、
ということだ。

これの極端なものは、
浦沢直樹の漫画で見ることができる。

誰かが登場し、
なんらかの事件に巻き込まれ、
強烈な謎を残して続く
→次回、全く関係ない別の場所で、
誰かが登場し、なんらかの事件に巻き込まれ、
強烈な謎を残して続く…

という構造だ。
一向に最初に振られた謎の解明はすすまず、
謎だけが深まって行く。

それらを覚えているうちはいいけれど、
いい加減Fストーリー、Gストーリー…
などとサブプロットが10本にもなると、
何が何だか覚えきれなくなる。
週刊連載ではとくにきつい。
「20世紀少年」なんて連載時はもう忘れていた。
フクベエって誰だっけ?

結局この話ってすごい短い話を、
登場人物を増やして、
横に広げて伸ばしただけなんじゃないの?
たとえば「Pluto」とかも同様だ。

これは、元を辿るとデビッドリンチだろうか。
「ツインピークス」が原点になるかもね。
似た構造に、
全盛期フジテレビ深夜ドラマの「ナイトヘッド」があった。

さらに元を辿ると、「七人の侍」だろうか。
七人が集まるまで、どんどんサブプロットは増える。
しかし黒澤は流石で、
集まる後半は「野武士を次々減らして行く」という、
Aストーリーの展開と同時進行であった。

これによって、展開がストップしている感覚がなく、
進行しつつサブプロットが増えていく、
巧妙な構造になっていた。


ところで、更に原点に辿ると、
中国の列伝形式に至る。
三国志演義や水滸伝などかな。
これらは、各編が全員別の主人公で構成されていて、
各編がその人の小話で構成されている。
ある話に出た人が別の話の主役の中で脇役になることもあれば、
別の話で事態が進んでいる時もある。
全体として、誰か中心を追うことはなく、
登場人物全員が主役で、それぞれの小話を持っている。

僕が最初三国志に触れた時、
劉備が主人公だと思っていたら、
どんどんフォーカスが関羽になったり曹操になったりして、
劉備にフォーカスが帰ってこなかったことが、
なんだか微妙だと思った。

史実を元にしているわけだから、
物語のようにはいかないのだろう、
と納得していた。

だが、逆に物語とは、列伝形式ではないもの、
と考えられよう。

つまり、
「色々な人が世界にいて、
誰が主人公となく平等に小話を持ち、
それらが俯瞰されるタペストリーのようなもの」
が物語ではなく、
「ある人間にフォーカスし続けて、
他の誰よりも目立って世界を変えるまで」
を追うことが物語なのである、
と考えることが出来るだろう。


なぜ本筋を追わずに、
サブプロットを始めてしまうのか?
本人に聞くと、
「面白いと思ったから」と答えるかもしれない。
ほんとうは違っていて、
「主人公を追うことが難しくて苦しかったところ、
逃避先を見つけて、そっちで戯れるほうが面白かった」
に過ぎないのだ。
その間、観客はおいてけぼりで、
あなたの逃避を待たなくてはならない苦痛がある、
ということを認識しておくことだね。


同様のことは、
スプレッドにおいても起こりがちだ。

時間が進まず、横に広げる話は全てスプレッドである。

それは、
事態を展開させる実力がなく、
ただ設定に逃げている、
もっともかっこ悪いやりかただ。


ただし、
始めたサブプロットが本筋に合流して、
新たな展開になるのは成功したサブプロットである。
本筋を進める燃料になるのは良い。
フォーカスはAストーリーに合っている。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(3) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
史実の扱いでずっとひっかかっていたものが、
列伝形式というワードと
「ある人間にフォーカスし続けて、
他の誰よりも目立って世界を変えるまで」という表現により
非常に腑に落ちました。

サブプロットの成功が本筋を進める燃料になるのは
分かるのですが、サブプロットというもの自体が
あるもの(成功している場合)と、ないものとでは物語にどんなちがいが生じてくるものなのでしょうか?
Posted by asu at 2019年02月15日 20:31
asuさんコメントありがとうございます。

ないってことはないような気がします。
ストーリーとは一人が出てくるものではなく、
二人以上が出てくるものです。
主人公の目的と、それ以外の人(たち)の目的は異なり、
それがストーリーの中核になるはずです。

主人公以外の登場人物の目的が最終的にどうなったかが、
サブプロットなので、
(あるいは主人公のメイン目的以外の複数の目的も、
サブプロットになりえる)
「どうもなってない」だと失敗したサブプロットといえるでしょう。

もしないとすると、
主人公が一人で困って一人で解決する、
研究者や哲学者のようなストーリーになると思います。
一人称形式の小説や、ナレーターつきの再現Vなら出来ますが、
三人称形式の映画脚本にはならないでしょうね。

誰か他の人が出てくる限り、
それが端役でないならば、必ず目的があります。
目的のない登場人物はただの背景です。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年02月16日 01:16
主人公のメイン目的以外の複数の目的もサブプロットに
なりえるのですね。
史実によった研究者、哲学者のような一代記もの
みたいなのだと他のサブプロットがないに近い状態
になり得ることがある、とのこと納得しました。
助言どうもありがとうございます。
Posted by asu at 2019年02月17日 00:02
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