kykyさんへのコメント返しが興味深い話題だったので、記事化しておく。
「このストーリーのテーマはPである」
(Pは名詞ではなく、文章)
と書いたとき、
数学のように、厳密にはPは一定しない、
ということに注目しよう。
私たちの言語は、
同じ意味を表すのに複数の表現を取る。
その複数の文章が、厳密に同じ意味かどうかでいうと、
違うだろうが、
「大体同じ意味である」ということは、
我々は理解できる。
翻訳を考えよう。
訳者によって訳語が異なる。
うまい訳もあれば、まずい訳もある。
しかし明らかな誤訳でない限り、
私たちは、
使われている言葉や構造が違ったとしても、
大体同じ意味である、
と理解することが出来る。
辞書を考えよう。
ある言葉の定義は、
辞書によってバラバラだ。
それは違う意味なのだろうか?
いや、同じ意味を指そうとする、
違う表現に過ぎないのだ。
つまり、
意味は厳密な形では存在できないし、
それを表現しようとする言葉の組み合わせも、
厳密な一意解も存在しない。
有り体の言葉で言うと、言葉にはゆれがあり、曖昧である。
これを嫌い、厳密に意味を記述しようとしたのが、
数学、論理学である。
デジタルテクノロジーは、すべてこの末裔である。
ある言葉の意味は厳密に定まり、
ある意味を表現する言葉は唯一しかない。
数学や論理学は、意味と言葉の関係に、
一切の揺れを許さなかった、
厳密性を尊んだ。
おそらくこのへんの話は、
ギリシャから中世から言語論にまで、
延々と繰り返されてきたことだろうから、
ここでは深く立ち入らない。
なぜ言葉と意味には揺れがあるのか、
なぜ人によって異なる言葉を使ったとしても、
大体同じ意味だとわかるのか、
なぜ異なる言語なのに相互理解(ある程度の)が可能なのか、
なぜ日や気分によって、私たちは同じ意味を指すのに違う言葉を使ってしまうことがあるのか、
なぜ同じ言葉を使うとバカに見えるのか。
色々な疑問が出てくるが、深く立ち入らない。
僕は、神経回路が量子力学で動いていることと、
人間が過去や環境や類推に影響されるからだ、
と仮説を立てているが、これは雑談レベルだ。
さて、本題。
このストーリーのテーマはPである、
と考えるとき、
Pの唯一の表現はない、
と考えた方が精神的に楽である。
色々な表現で書くことができるし、
シンプルにも複雑にも書くことができるし、
明示することも暗示することも出来るし、
短く書くことも長く書くことも出来る。
(最大に長いのは、本編と同じ長さの同一文か。
いや、短いストーリーのテーマを、
それ以上に長い文章で書くことも可能だな)
人によって異なる言葉を使うし、
我々の気分や日によっても表現形は異なる。
しかし、大体同じような意味のことを言っていればら
正解だと考えるのが健康だ。
数学でない限り、
言葉と意味には揺れがある。
だから大体合ってれば良しと考える。
明らかな間違いは間違いだし、
微妙に外れているのもわかるし、
惜しいのもわかる。
言葉と意味は、感覚なのかもしれない。
で、P。
あるストーリーを見たときに、
テーマを文章Pで表現する。
名作というのは、明示せず暗示である。
だから様々な表現形を取るわけだ。
以前にも議論したが、
義務教育の国語の客観テストは、明示されたものを探すテストである。
暗示を扱えない。
つまり、物語に必要な国語は、義務教育の範疇外である。
教養とか、才能と呼ばれる範囲で、
教育では身につかない。
自然に身につくことはあるから、
数と時間をこなすしかない範疇のことである。
ということで、
色々な名作のテーマを書き出してみたまえ。
一回見たときと、
二回目見たときは変わるかも知れない。
読解力が上がったからかもしれないし、
誤解が増えたからかもしれない。
作者がこうだと思っていても、
観客はべつのものを感じ取るかもしれない。
それだけ、ことばには揺れがある。
「○○のテーマは○○○○ということで合ってますか?」
という問いには、
「大体合ってる」が最高の賛辞でしかない。
今日思っていたP1と、明日思ったP2すら、
異なる可能性がある。
大体同じ意味だけど、微妙に違う方向性のときがある。
これは、
人のものの解釈の時にも起こるし、
自分の作品の分析やリライト時にも起こる。
じゃあどうすればいいかというと、
数学的厳密さは、物語には不要だと考えることだ。
むしろ、揺れこそが物語の魅力であることを、
思い出すことだ。
わたしたちは、そのようなものを作っている。
だからといって、
何にも解釈できないようなものを作って、
中二的ドヤをやるのはバカである。
なはらあまなわくせのちう
などと意味のない文章を書くことと同じだからだ。
その意味で、
現実を批評しないシュールに意味はないことを、
先日も議論した。
ということで、
「テーマを正面据えて見つめよう」
としても、
その道具である言葉や意味に揺れがあることを知ろう。
それでも、
大体合ってるところに辿りつこう。
2019年02月16日
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