2019年02月17日

日本語と主語と物語

先日の議論で、
「日本語の省略された主語は、
『みんな』である」という説を出してみた。
出る杭をうったり、赤信号みんなで渡れば、
というような文化を持つ民族は、
言葉にその意識があるのだ、という主張である。

ところで、日本にハリウッドスタイルの映画が、
成立しにくいのも、この文化と関係があると思われる。


ハリウッド理論や、西洋の物語理論では、
主人公が行動することがメインである。
主人公が何かを目的として、
夢想するだけではなく行動して、
世界から反発を喰らったりしながらも、
それらの反対を潰し、または説得して、味方につけ、
ついには世界を変え、自分も変わり、
世界は以前より良い世界に変えられた、
というのが、基本になる概要だと思う。

しかし、これがことごとく、
日本人の(現代の)文化、無意識に合っていない気がする。

言っているだけで実際にはやらない人たち。
何かやれば文句をつける人たち。
リターンよりもリスクをいう人たち。
何もしないほうが、何かを始めるより簡単な社会。
責任を回避し、誰かに擦り付ける人たち。
何かを宣言して、実行し、世界を変えるには、
あまりにも日本は同調圧力がつよく、
失敗に厳しい。

失敗して皆から何か言われるくらいなら、
何もしないほうがましだ、
そう考える若者は沢山いることだと思う。

だから、ハリウッド式のストーリー理論のような、
行動する主人公が描けない。
描けないというより、リアリティがないというか。

だから、
ただ何もしない物語とか、
共感性の高いエピソードだけの羅列のような、
何も世界を良い方向に変えない物語しか、
生れないのではないか。

西洋の考え方に、「進歩」というものがある。
世界は、よくしようとする限り、
段々とよくなっていく、という考え方だ。
これは日本にはもともとなかった概念である。
日本人は、科学の進歩や目に見える進歩は、進歩と考えるが、
人間の本質や社会は進歩しないとすら考えているのではないだろうか。
むしろ、東洋のように、
同じ世界が輪廻転生していると考えがちではないかと思うのだ。
ループものが一定のはやりをしているのも、
進歩に対して否定的なんじゃないか、
とおもえる節がある。

進歩とは、一種の宗教の可能性がある。
実証されたものではないし、
ある程度進歩したとしても、
社会は駄目なままだし、人間はおなじあやまちを繰り返しているようにおもえる。
反省や進歩などないのだ、
という諦観は、「三つ子の魂百まで」という言葉に、
端的に表れているように思える。


周囲の反対を押し切ってまで、行動するべきなにか。
自分だけではなく、(結果的に)世界をよくするなにか。
そのために行動すること。

これらのことが、日本ではリアリティが少ないから、
行動して世界を変えるようなストーリーが、
生れづらいのかもしれない。

どちらかというと、
みんなが考えるようなことをやっておしまい、
で満足しているのかもしれない。

「みんな」の存在しない社会では、
オリジナリティこそが基本だが、
みんなが同質な社会では、
オリジナリティを発揮すると、
出る杭を打たれてしまう。
打たれないほどに出る杭でない限り、
同質性は、保たれる傾向にある。
こうやって日本社会は、均衡を保ってきたのだろう。


日本人の価値観でかんがえないことだ。
大阪人は、まだラテン気質があるので、
オリジナルで突破しようとする節がある。
(おもろいからええやんけ、やってまえ)
大阪人の考え方で、物語を考えてもいいかもしれない。
僕は大阪人なので、ときどきそれを思う。

とはいえ、
行動に責任が伴うのは、西洋でも大阪でも物語の中でも同じである。
最終的にそれが責任を取れるような行動が、
結果を出すことになる。

そういうものに、日本人はもともと弱いんじゃないか、ってこと。

サッカーで海外にいくような人は、
なんか従来の日本人像と違う感じがする。
そういう人のほうが、
物語の主人公に相応しい、
ということを考えておいたほうがよい。

暇でオタクで童貞のようで、
自分が何もしなくて、だれかに幸せにしてほしくて、
日々憂き目にあっていて、辛い私を分かってほしいような、
自分よりみんなの目を見ているような、
メアリースー的なキャラクターは、
物語の主人公に相応しくない。

posted by おおおかとしひこ at 19:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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