2019年02月22日

趣味全開って、静的なものに限定されて動的なものにはあまりない

趣味全開なものは、たいていディテールの追求になる。
それ自体はやりすぎなければ結構なことだ。

しかし注意しておくべきは、
それって静的なことだよね、ってこと。



たとえば性癖や異性の好み。

童顔タレ目のタヌキ顔で巨乳とか、
モデル系高身長のショートカットとか。
長身イケメンで髪の毛が目まで垂れててタバコ吸うとか。

これらは全部状態設定のことであり、
変化のことではないから静的な要素である。

たとえばシチュエーション。

孤独な男とか、
本屋で出会う男女とか、
バーとタバコとか、
後ろから抱きしめるとか、
変身ものでバレる瞬間とか。

これらは、以下同。

たとえば設定。

二つ名を持つとか、
眼帯の下には超能力の目があるとか、
最強の剣を持ちながら普段はぐうたらとか。

これらは以下同。

最後の例は変化ではないことに注意されたい。
ぐうたら状態から最強状態に変化して、
力をふるったらまた元に戻るから、
変化が描かれると勘違いしがちである。

これは変化ではなく二面性だ。
「Aという状態とBという状態を往復する」状態であり、
安定した二面性である限り、
それは状態である。
物語における変化とは、
「元に戻らない変化(不可逆変化)」
だと思うと良い。

友情が壊れるとか、
喧嘩していたのが仲直りするとか、
世界に新しい価値観を広めるとか、
わざわざそれ以前に戻ろうとしないように、
変化するのが変化だ。
(必ずしも成長とは限らないので、
変化の言葉が使われているのだろう)

あるいは、死や滅び、逆に誕生は、
不可逆変化の中でも強いものなので、
物語の中でもよく使われる。
(例: 悪の帝国は滅び、ラスボスは死に、連合王国が誕生する)


二面性の例で言えば、
三面性になるとか、
一面性に統合されるとか、
別の二面性に移行するとか、
そういうものの変化を、はじめて物語的な変化という。

それでは設定が変わってしまうではないか。
そうだ。
物語における変化とは、
設定そのものが変化してしまうことをいうのだ。

失われた時間への痛みを伴い、
時間が進んでいくのが変化であり、物語なのだ。

僕がバッドエンドではなくハッピーエンドを描くべきだというのは、
その痛みに価値があることを、
良き変化で示すべきである、
という前向きな理由である。


さて、本題。


趣味やディテールへのこだわりは、
どうしてか、
動的な変化そのものではなく、
静的なものに限られるような気がする。
限られるかどうかは置いといて、
大きく偏っている。


「少女から女へ変化しようとする思春期」は、
たとえば僕らの大好物だが、
少女にも女にも興味がなく、
「その瞬間」が好きなだけな可能性が高い。
だからその人が大人の女になってしまったら、
次の、
「少女から大人の女へ変化しようとしている状態の人」
に興味が移ってしまう。

アイドル商売とは、そのようなものだと思う。
いわば、サナギ状態商売というか。
芋虫を仕入れて、サナギになったら売り出して、
蝶になったら卒業させて、
サナギを補充するわけだ。

サナギが好きなだけであって、
芋虫も蝶も好きなわけではない、
というのが、
趣味やディテール拘りの本質ではないかと、
僕は考えている。



さて、ようやく本題に達した。

趣味全開やディテールへのこだわりはいいことだが、
それに足を取られないことだ。

それは変化の入り口に過ぎない。
芋虫と蝶を描いて、
はじめて物語だぜ。

設定を壊して、変化する痛みを伴い、
そして変化した後は、
以前より世界が良くなっているような、
ハッピーエンドこそが、
僕は物語のあるべき姿だと考えている。


変化する痛みを怖がる人が、
先日も議論したような、
トンネルを怖がり、
状態を愛でるもので安心したがるのかもしれない。

それは物語の価値ではなく、
美術館の役目でしかないと僕は考える。
posted by おおおかとしひこ at 14:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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