趣味全開なものは、たいていディテールの追求になる。
それ自体はやりすぎなければ結構なことだ。
しかし注意しておくべきは、
それって静的なことだよね、ってこと。
たとえば性癖や異性の好み。
童顔タレ目のタヌキ顔で巨乳とか、
モデル系高身長のショートカットとか。
長身イケメンで髪の毛が目まで垂れててタバコ吸うとか。
これらは全部状態設定のことであり、
変化のことではないから静的な要素である。
たとえばシチュエーション。
孤独な男とか、
本屋で出会う男女とか、
バーとタバコとか、
後ろから抱きしめるとか、
変身ものでバレる瞬間とか。
これらは、以下同。
たとえば設定。
二つ名を持つとか、
眼帯の下には超能力の目があるとか、
最強の剣を持ちながら普段はぐうたらとか。
これらは以下同。
最後の例は変化ではないことに注意されたい。
ぐうたら状態から最強状態に変化して、
力をふるったらまた元に戻るから、
変化が描かれると勘違いしがちである。
これは変化ではなく二面性だ。
「Aという状態とBという状態を往復する」状態であり、
安定した二面性である限り、
それは状態である。
物語における変化とは、
「元に戻らない変化(不可逆変化)」
だと思うと良い。
友情が壊れるとか、
喧嘩していたのが仲直りするとか、
世界に新しい価値観を広めるとか、
わざわざそれ以前に戻ろうとしないように、
変化するのが変化だ。
(必ずしも成長とは限らないので、
変化の言葉が使われているのだろう)
あるいは、死や滅び、逆に誕生は、
不可逆変化の中でも強いものなので、
物語の中でもよく使われる。
(例: 悪の帝国は滅び、ラスボスは死に、連合王国が誕生する)
二面性の例で言えば、
三面性になるとか、
一面性に統合されるとか、
別の二面性に移行するとか、
そういうものの変化を、はじめて物語的な変化という。
それでは設定が変わってしまうではないか。
そうだ。
物語における変化とは、
設定そのものが変化してしまうことをいうのだ。
失われた時間への痛みを伴い、
時間が進んでいくのが変化であり、物語なのだ。
僕がバッドエンドではなくハッピーエンドを描くべきだというのは、
その痛みに価値があることを、
良き変化で示すべきである、
という前向きな理由である。
さて、本題。
趣味やディテールへのこだわりは、
どうしてか、
動的な変化そのものではなく、
静的なものに限られるような気がする。
限られるかどうかは置いといて、
大きく偏っている。
「少女から女へ変化しようとする思春期」は、
たとえば僕らの大好物だが、
少女にも女にも興味がなく、
「その瞬間」が好きなだけな可能性が高い。
だからその人が大人の女になってしまったら、
次の、
「少女から大人の女へ変化しようとしている状態の人」
に興味が移ってしまう。
アイドル商売とは、そのようなものだと思う。
いわば、サナギ状態商売というか。
芋虫を仕入れて、サナギになったら売り出して、
蝶になったら卒業させて、
サナギを補充するわけだ。
サナギが好きなだけであって、
芋虫も蝶も好きなわけではない、
というのが、
趣味やディテール拘りの本質ではないかと、
僕は考えている。
さて、ようやく本題に達した。
趣味全開やディテールへのこだわりはいいことだが、
それに足を取られないことだ。
それは変化の入り口に過ぎない。
芋虫と蝶を描いて、
はじめて物語だぜ。
設定を壊して、変化する痛みを伴い、
そして変化した後は、
以前より世界が良くなっているような、
ハッピーエンドこそが、
僕は物語のあるべき姿だと考えている。
変化する痛みを怖がる人が、
先日も議論したような、
トンネルを怖がり、
状態を愛でるもので安心したがるのかもしれない。
それは物語の価値ではなく、
美術館の役目でしかないと僕は考える。
2019年02月22日
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