というのが、
脚本におけるかっこよさの定義かもしれない。
映画刀剣乱舞の感想で、以下のようなツイートを見かけた。
興味深いので、全文引用する。
>映画刀剣乱舞、男のわたしから見ても三日月宗近かっこよすぎですけど、それは顔が良いとか物語上魅せる役柄とかだけでなく、衣装の美麗さだったり、映像演出の妙であったり、台詞よりも表情で演じる役者の技術だったり、袖や鞘の先端まで体の一部かのような所作を体得した努力であったり、すべてです。
この感想は、
かっこよさにおいて述べているが、
脚本上では三日月に魅力がないと言っているようなものだ。
衣装部、撮影部照明部、美術部、アクション部、
俳優部、メイク部、
演出部、編集部録音部の仕事は褒められているが、
脚本部の仕事はスルーであるからだ。
僕が映画刀剣乱舞を今年最低レベルの映画扱いするのは、
ここが脚本を論ずる脚本論の立場だからだ。
スタッフワークは頑張っている。
しかし脚本だけが詰まらないから問題にしているのだ。
脚本上は、三日月は、
「謎めいた行動を取っていたと思ったら、
隠し事がありそれが露見したら、
皆のためであったとわかった」
というだけの行動しか取っていない。
それが痺れるほどかっこいいと思えない。
よくある役割でしかないからだ。
脚本でかっこいいことを描くべきだ。
たとえブサイクな役者がやったとしても、
その行為は卓越し、
誰もが成し得ることではなく、
それが世界を揺るがす価値を生む行為を、
ストーリーで描くべきである。
しかるに、映画刀剣乱舞の脚本には、
そのように期待されるものがなかった。
だから僕は、三日月をかっこいいと思わない。
この感想は、
手紙において、「字が綺麗」と言っているようなものだ。
僕は字が綺麗だろうが汚かろうが、
書いてある内容を問題にしたい。
僕はだから、
鈴木拡樹という役者の無駄遣いの脚本だと、
小林靖子を批判している。
やつはもっと出来る。
拙い演技ですら、麗羅の死は泣けた。
なぜか?
カッコいい「行動」であったからだ。
いいホンだったから、麗羅というキャラクターがかっこいいと思い、
だから鈴木拡樹もかっこいいと錯覚したのである。
当時の2ちゃんなどを見ればわかるけど、
鈴木拡樹は特にかっこいい扱いはされていない。
今でこそみんなイケメンだったってなってるけど、
それは風魔のストーリーのマジックでみんなかっこよく見えただけで、
ずっと冴えない役者たち呼ばわりされていたぞ。
かっこいいのは、出口だ。決して入り口ではなかった。
逆に言えば、
ブサイクなのにかっこよく見えるのは、
脚本上で、かっこいい行為が描かれていたときだけだ。
それが脚本の仕事だ。
映画刀剣乱舞は、
スタッフワークに寄りかかった、
脚本家が仕事をしていない脚本だ。
ガワは出来ていても中身がない。
だから僕は今年最低の映画だと、
脚本論の立場から斬って捨てる。
役者は、脚本にないセリフは言えないし、
脚本にない行動はできない。
だから脚本家というのは、
恐ろしいほどの責任がある。
鈴木拡樹を無駄遣いしただけで、
小林靖子は無能の烙印を押されて当然だ。
おれは、
たとえ鈴木拡樹がやらなかったとしても、
ものすごくかっこいいことをする三日月を、
鈴木拡樹がやったからこそ、
さらに輝かせることができた、
という結末を期待していた。
ここの脚本論は、
ガワと中身を分けて論じることが多い。
映画刀剣乱舞は、ガワはなかなか良く出来ていたが、
中身はスカスカだった。
昨今多い、ドーナツ商売だ。
恋する乙女たちは、ドーナツでも大喜びだろう。
僕は、それに警鐘を鳴らしたい。
それを許していたら、映画が滅びる。
いや、もう邦画は滅びているかもしれないが。
舞台版を見ればあなた望む刀剣乱舞の世界があるとおもいますよ。男性の脚本家ですし。
特に結衣の目の不如帰は、一週間ほど胸にきて仕事ができない状況に落としてくれます。
ちなみに映画版と舞台版はまったく異なる世界線なので、それを区別して演じる鈴木拡樹は素晴らしいですよ
僕は女の脚本家が嫌いなわけではなく、男の脚本家が好きなわけでもなく、
小林靖子脚本が、女脚本家にありがちな欠点が出ていて嫌いだ、と言っているだけです。
(そのことをうまく言葉にするには、もう少し整理の時間が必要)
鈴木拡樹の才能は知っているので、そこがヒキになるわけではなく、
感情移入がちゃんとできればなんでもよいです。
(少なくとも映画版は彼の才能を30%も引き出していないと感じました)
舞台と映画の違いについて言及している人をそんなに見なかったので、やや興味がわいてきました。