人生は、一見物語になりそうだが、
実はならないと僕は考えている。
なぜかって?
「人生を通じた、一つの目的」なんて、
そうそうないからだ。
物語というのは、
目的が発生して、それが解決するまでを扱う。
いわば、長い人生の、
「目的A発生」から、
「Aが達成した」までを切り取ったのが物語だ。
だから、
もし人生そのものが物語になるならば、
生まれた瞬間か、
物心つくあたりに、
「人生が終わる頃に達成するべき目標」が発生し、
晩年、その目的の達成とともに死ぬべきだ。
人生がそううまくいかないことぐらい、
ある程度生きていたら分かるだろう。
人生というのは、
なにもかも中途半端で、
目的が同時に発生したり、
次々に片付いたり、
片付かないままフェードアウトしたり、
整理などまったくされないサブプロットだらけだ。
あの人とはどうなった、
あの件はどうなった、
いつかやろうと言ってたあれはどうなった、
そうこうしてるうちに新しい局面がやってきて、
大体年が明けたら忘れてしまっている。
そんなことを繰り返して、
気づいたらどこかで少し成功している。
そんな、未整理なものが、
物語になるわけがない。
逆にいうと、
物語とは、
その中途半端な人生を、
上手に整理したものであるといえる。
つまり。
ある問題を抱えた人が、
とある日問題に出会い、
自分の問題とその問題とを、
解決しなければならなくなり、
自らの意思でそれを解決することにして(ここまで一幕)、
その目的と相反する人々といざこざを起こしたり、
それらを乗り越えたり、
小成功したり失敗したりして、
あともう一歩で成功の扉の前まで来て(ここまで二幕)、
最後の大勝負に大成功することで、
全ての問題が解決する(ここまで三幕)。
このように、
「物語形式」に整理されたものを、
私たちは人生の一断面だと捉えている、
ということに過ぎない。
だから、
膨大で複雑な人生は、
そのままでは物語にならない。
仮に80で死ぬとして、
80年間上映する映画になったとしても、
それは物語ではない。
問題Aは最初の方に提示されないし、
問題Aが最後に解決して終わらないし、
問題Aが常にどうなったか焦点が維持されないし、
常に退屈しないように伏線があるわけではないし、
その問題Aの解決が、
その人のテーマであると最後に分かるわけでもない。
つまり、
人生と物語は、違う構成になっている。
一見人生の真実を、そのまま活写すれば、
物語になるような気がする。
しかしそれは真ではない。
物語形式に整理されない限り、
それは物語にならないのだ。
なんだかトートロジーのようになってきた。
僕がいう物語の形式でない物語の形式もあるだろう。
しかし、おおむね上に書いたような形式が、
最もポピュラーな形であることは異論ないだろう。
あるアイデアは物語になるか?
という問いは、
つまりは、それが物語形式になるかどうか?
で判断できるということだ。
あなたの人生とあなたの書く物語は、だから、関係ない。
2019年03月03日
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