2019年03月03日

人生の目的

人生は、一見物語になりそうだが、
実はならないと僕は考えている。

なぜかって?
「人生を通じた、一つの目的」なんて、
そうそうないからだ。


物語というのは、
目的が発生して、それが解決するまでを扱う。

いわば、長い人生の、
「目的A発生」から、
「Aが達成した」までを切り取ったのが物語だ。

だから、
もし人生そのものが物語になるならば、
生まれた瞬間か、
物心つくあたりに、
「人生が終わる頃に達成するべき目標」が発生し、
晩年、その目的の達成とともに死ぬべきだ。

人生がそううまくいかないことぐらい、
ある程度生きていたら分かるだろう。

人生というのは、
なにもかも中途半端で、
目的が同時に発生したり、
次々に片付いたり、
片付かないままフェードアウトしたり、
整理などまったくされないサブプロットだらけだ。

あの人とはどうなった、
あの件はどうなった、
いつかやろうと言ってたあれはどうなった、
そうこうしてるうちに新しい局面がやってきて、
大体年が明けたら忘れてしまっている。

そんなことを繰り返して、
気づいたらどこかで少し成功している。

そんな、未整理なものが、
物語になるわけがない。

逆にいうと、
物語とは、
その中途半端な人生を、
上手に整理したものであるといえる。

つまり。

ある問題を抱えた人が、
とある日問題に出会い、
自分の問題とその問題とを、
解決しなければならなくなり、
自らの意思でそれを解決することにして(ここまで一幕)、
その目的と相反する人々といざこざを起こしたり、
それらを乗り越えたり、
小成功したり失敗したりして、
あともう一歩で成功の扉の前まで来て(ここまで二幕)、
最後の大勝負に大成功することで、
全ての問題が解決する(ここまで三幕)。

このように、
「物語形式」に整理されたものを、
私たちは人生の一断面だと捉えている、
ということに過ぎない。


だから、
膨大で複雑な人生は、
そのままでは物語にならない。
仮に80で死ぬとして、
80年間上映する映画になったとしても、
それは物語ではない。

問題Aは最初の方に提示されないし、
問題Aが最後に解決して終わらないし、
問題Aが常にどうなったか焦点が維持されないし、
常に退屈しないように伏線があるわけではないし、
その問題Aの解決が、
その人のテーマであると最後に分かるわけでもない。

つまり、
人生と物語は、違う構成になっている。

一見人生の真実を、そのまま活写すれば、
物語になるような気がする。

しかしそれは真ではない。

物語形式に整理されない限り、
それは物語にならないのだ。

なんだかトートロジーのようになってきた。

僕がいう物語の形式でない物語の形式もあるだろう。
しかし、おおむね上に書いたような形式が、
最もポピュラーな形であることは異論ないだろう。


あるアイデアは物語になるか?
という問いは、
つまりは、それが物語形式になるかどうか?
で判断できるということだ。


あなたの人生とあなたの書く物語は、だから、関係ない。
posted by おおおかとしひこ at 21:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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