2019年03月04日

何を見るかより、誰を見るかになっている

ネットではよく、
「何を言っているかよりも、誰が言っているか」
だと言われる。

どんなにいいことを言っても、無名の人なら取り上げられないし、
逆にたいしたことでなくても、有名人ならバズる。
いかに阿呆が多いか、ということである。

この言葉を借りれば、
「何を見るかより、誰を見るのか」に、
今、映画やドラマが堕落しているといえる。


ネットのニュースで、
「『3年A組』永野芽郁、衝撃のカミングアウトに驚きと戸惑いの声殺到(ネタバレあり)」

という見出しを見た。

記事の内容は、
永野芽郁のカミングアウトなのではなく、
さくら(ヒロイン)のカミングアウトであった。

さくらがどういうカミングアウトか、
ハラハラと心配するよりも、
永野芽郁がどういうカミングアウトするかのほうが、
世間に注目を集める、
ということだ。

(もちろん記事の見出しは、その誤認を狙っているわけだ)


この時点で、
さくらが永野芽郁に負けている。

負けているようなドラマを作る人たちは、
恥じるべきである。

恥じたり、悔しくないのなら、
やっぱり恥じるべきだ。



永野芽郁かどうかよりも、
さくらが何ていうか、その先を見守るドラマが、
ほんとうに面白いドラマだ。


(風魔では、藤田玲ではなく、
「壬生」がどうなるか、みんなドキドキしていたではないか。
それが理想である。
藤田と永野芽郁の知名度に差はあれど)
posted by おおおかとしひこ at 17:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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