2019年03月05日

なぜ三船敏郎のような俳優が現れないのか

三船敏郎(のような俳優)が活躍できるようなシナリオが、
ないからだ。


歌舞伎の頃の伝統から、
俳優は○枚目、
という言い方で分類される。

歌舞伎の頃には名前で看板が出され、
その○枚目の位置で役割が固定していたからだそうな。

ちなみに八枚目まであったらしいが、
現代で使われるのは三枚目までだろう。

三枚目:
おどける役。トリックスター。
一枚目や二枚目がシリアスになりがちなのを、
笑いで緊張をほぐす。
一枚目や二枚目がスーパースターなのを、
庶民の目線の三枚目で混ぜ返し、
相対的な視点を提供する。

二枚目:
大抵は細面のイケメン。
イメケンのことを二枚目というのはこれが起源。
一枚目の存在感(実力、行動力)には足りない、
顔採用枠とでもいうべきか。
大抵は一枚目に随伴する、影のような役割。
スラムダンクで言えば、流川が二枚目の役割。

一枚目:
主役。
物語の中の主たる問題を解決する本人。
行動力、判断力、社会力すべてに秀で、
率先してリーダーになる。
役柄だけでなく、役者本人もそういう人柄の人が多く、
「座長」と呼ばれて、一座を引っ張るリーダー
(若手の世話や、チームをまとめる、対外交渉など)
を期待される場合もある。


つまり、三船敏郎は、一枚目の役割を果たした俳優だった。
彼が現代にいても、活躍する場がない。

一枚目が活躍するシナリオが、壊滅的危機にあるからだ。

代わりにあるのは、
二枚目が活躍することだろうか?
そうかもしれないし、
「庶民的で弱い自分が、
思いの強さ、必死さで、
あるいはなぜか偶然で、
なんとか小成功を手に入れる」
というシナリオが増えたからかもしれない。

これは時代背景とも関係する。

日本を見よう。
70年代くらいまでは、
一枚目が活躍できた。
一枚目の役割は、問題の解決であり、
世界を開拓するリーダーの役割だった。
80年代のバブルで覇権を取ったのは、
ネアカ(根が明るい)、今で言うとリア充、陽キャだ。
一枚目を「重厚長大」と嫌い、
ネアカを「軽薄短小」として、それを良しとした。
ネアカは二枚目でも三枚目でもない。
「二枚目を目指した三枚目」といったところだろうか。
バブル崩壊の90年代半ばまでは、
それが通用したと思う。
「東京ラブストーリー」のカンチは、
織田裕二の80年代的なネアカさに支えられていた。
90年代後半は、その反動でクールが重視されたと思う。

今はどうだろう。
時代を開拓するリーダー、
群れを率いるリーダー、
判断力と行動力に秀でる人はいるだろうか?

たぶん、そんなリアリティがないのではないか。

人間がちっぽけになったのか。
僕は、
地球が小さくなってしまったからだと考える。

世界や歴史に目を向けて見よう。

原始時代は、
小隊や中隊程度の人員を率いて、
部族同士の戦争に勝てば王になれた。

時代が降り、王になるには万単位を治める必要がある。
王は倒れ、人民から選ばれた者が支配者となると、
国ではなく、
ひとつの世界で王とならなければならなくなる。

たとえば県予選では王になれない。
全国制覇でようやく王か。

80年代まではそのへんが一枚目だった。
高校野球が人気で、タッチが流行る。
プロ野球が頂点の時代だ。
しかし90年代、野茂がメジャーリーグにいくと、
高校野球の全国制覇の価値が落ちる。
その流れは今まで続き、
メジャー挑戦の日本人はどんどん国外流出する。
つまり、世界を制覇しなければいけなくなった。

90年代のハリウッド映画は、
「地球の命運は、たった一人の男に託された」
のタイプが多かった。

これはつまり、
地球規模で開拓者にならなければ、
一枚目とはみなされない、
ということだ。

つまり、我々の「世界」は、
小隊規模(クラスの班や、町内の隣組くらいの規模)からはじまり、
いつのまにか地球全体になってしまった。
で、ネットだ。

いま、ネットでバズらなければ、
王とはみなされない。

しかるべき機関の認定ではなく、
ネットの中で王にならなければならない。

つまり、
地球が狭くなり、しかも頂が高くなってしまった。
人口密度が上がり、その中に埋もれがちになった。

今、人の意識は、中世に戻っている感すらある。
ネットで広範囲を見ながらも、
そこに勝利することは出来ないから、
無力感にさいなまれ、
周囲だけの価値観で王となることで逆転しようとする。
(バカッターはこの二律背反のあらわれだ)

近代的自我は喪失し、
クラス規模しか影響範囲がなくなった。

この範囲で一枚目になることに、
リアリティはない。
すでに一枚目は、地球を救わなければならないからだ。

つまり、
物語の一枚目と、
現実の一枚目の、
乖離が起こっている。


現実で一枚目になる方法が分からないまま、
物語の中の一枚目は、
地球規模の開拓者リーダーでなければならない。
バカッターvsジャスティンビーバー、
とでも言ったところか。

彼らに勝てないから、
一枚目が登場して活躍する話は、
嘘くさいのである。

だから、三船敏郎は存在できない。


もちろん、男が弱くなったという、
ウーマンリブの成果?もある。
男女同権運動は、
女を強くしたが、
男を弱くもした。

強い男になるには、「強い男であらねばならない」
という社会的圧力が必要だが、
その淘汰圧がなくなり、
「弱いままの男」で許されることになった。
だから相対的に弱い男が増える。
しかし女の本能は自分より強い男を求めるので、
少子化が進んだわけだ。
(自分より格下の男と付き合えるか?
と女に問えば良い)

勿論、強い女が一枚目を張る、
という方法論もある。
「戦う女」は、80年代のウーマンリブの空気から生まれ、
いま「戦う男」より人気があるジャンルだろう。
働く女は、「働きマン」などが象徴している。

三船敏郎の役は、菅野美穂になった、
とざっくり言ってもいいかもしれないね。



さて、
では、戦う三船敏郎の一枚目は、
今のシナリオで描けるのだろうか?

なぜ三船敏郎のような一枚目は「いい」のか?
それは、原始的だからだと思う。
部族を率いる、若く、逞しく、判断力があり、
賢く、勇気と決断力のある男に、
私たちは原始的魅力を見出すからだ。

開拓の場をSFにすれば、それは可能だ。
(事実三船にはスターウォーズ出演の打診があった)
海洋冒険物でも同様だ。

日本の映画やドラマに、そんな世界を描く体力はない。
だから、
一枚目は不在のまま、
二枚目以降が世界を回していく。


僕は、ドラマ風魔で、
三枚目の主人公が、一枚目に成長する話を描いた。
それは現代なりの一枚目の描き方の、
ひとつの解だと考える。
毎回上手くいくかはわからないけどね。


一枚目の不在は、
もう日本が開拓する余地がなくなったからだろうか。
数ある「職業もの」は、開拓であったと思う。
そのネタも尽きはじめ、
ツイッターとユーチューブには規制が入りはじめ、
フロンティアに政治が追いついてきた。

さて、次のフロンティアはどこだ。
そこに、三船敏郎が来るだろう。
posted by おおおかとしひこ at 11:52| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
もう現れないかもしれませんね〜
破天荒でありながら存在感がある。
黒澤映画の三船さんがどれも魅力的ですね。
(=^・^=)
Posted by dalichoko at 2019年03月05日 17:12
dalichokoさんコメントありがとうございます。

破天荒だと今は事案ですからね。
創造は破壊と表裏一体で、
三船の時代は破壊が許された時代でした。
いまはスクラップアンドビルドを認めない社会になってしまったような。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年03月05日 20:40
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