2019年03月07日

「キャラが好き」と感情移入は異なる

これを混同すると、
ストーリーの機能と、キャラ設定が混同しがちだと思う。


ざっくりいうと、
「キャラが好き」という状態は、他者として好きなこと。
感情移入とは、そのキャラをまるで自分と同じだ
(あるいは仲間)だと思うことだ。

他者として好きな場合、
「自分と似てるから好き」という場合もあるし、
「自分と全然違うから好き」という場合もあるだろう。

違うところに同じところを見つけて好きになることもあるし、
同じところに違いを見つけて好きになることもある。

そして、好き嫌いは、
個人の嗜好で決まる。
統計的に人気不人気はあるけれど、
個人が強烈に好きあるいは嫌いというのもある。

個人的な好みに特化すると、尖った、とされて、
統計的な中央値へいくと、丸いとか無難になる。


これらは、キャラ設定を考えるときに考えるバランス感覚だ。
全員丸くても詰まらないし、
全員尖っていてもまとまりがつかない。
いい塩梅に丸いのと尖ってる部分を配置すると、
いいだろうね。

自分の好みのキャラだけを並べてもよくない。
世の中のリアリティと異なりすぎるからだ。
そもそも自分の好みの理想郷だと、
揉め事がないからストーリーは発生しない。
(これを日常系ということがある。
日常系は一種の理想郷の体験であり、
それは現実に不安な人が見て安心する娯楽かもしれない)

ストーリーを起こしたいなら、
どこかしらキャラ同士にはズレがあり、
摩擦が起こるようになっているべきだ。
それがストーリーの種になるからだ。
(その結果起こる揉め事が、コンフリクトである)

ある一定のクラスタが好きなキャラを入れれば、
そのクラスタが好きになってくれるので、
商売の算段が立つ。
最近のキャラクター商売は、要するにこれである。
それをリアルな女の子でやったのが、
AKB商法というに過ぎない。
AKBはキャラクタービジネスだ。
キャラをリアルな(ほんとうはドロドロしているかもしれない)
年頃の女の子が演じているに過ぎない。


さて、これらのキャラクターのことと、
感情移入は全く異なることは、
時々僕が書いていることだ。

ストーリーにおける感情移入は、
それがどんなキャラであっても、
どんな好みの観客にも、起こすことができる。

そのキャラが、
脱出不可能と思える興味深い窮地に陥り、
観客が、
自分だったらどうするだろうと自分に置き換えて考え、
その状況の脱出の糸口が見つかり、
この先いけるかも、と思った瞬間、
感情移入の芽が生える、
と僕は考えている。

この瞬間に、
自分と異なるキャラと、
観客である自分が、一体化する。

そのキャラという入れ物の中に、
わたしの意識が入り込み、
そのキャラの中から世界を見つめ、
そのキャラの中から、
そのキャラの脱出を体験する。

それが物語鑑賞のための、感情移入である、
と僕は主張している。

長らくそのキャラと時間をともにすることで、
そのキャラと自分の似てるところを発見することもあるし、
全然違う部分を発見することもある。
そうやって、
「他者を好きになっていく」という、
キャラを好きになる過程を経るため、
感情移入は、「そのキャラが好き」という感情と混ざり合ってしまうので、
結果的に、
「キャラが好き」と感情移入は、
区別がつかないという構造だ。


つまり、
「キャラが好き」ありきではじめると、
そのキャラがピンチに陥ると不快になり、不安を感じる。
だから、トンネルを嫌う人が現れる。
そのキャラには幸せでいてもらいたいのだ。

だから、箸にも棒にもかからない、
起伏のない平坦なストーリーしか思いつかないのである。


つまり、ストーリーにとって、
「キャラが好き」という感情はマイナスなのだ。


だから、
誰でもないキャラクターで、
ストーリーの序盤をつくるといい。
その陥るシチュエーションと、第1の糸口までを作った上で、
あらためて、
そのキャラクターを作り込んで、
そのキャラとともにストーリーの行く末を見守れるような、
ストーリーとキャラクターの両輪を作るのが良いのではないか。


ストーリー作りの初心者は、
「キャラが出来ればあとは転がっていく」と考えたり、
「ストーリーが主体であり、
キャラクターはその駒に過ぎない」と考えることがある。

どちらも間違っている。

posted by おおおかとしひこ at 13:54| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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