2019年03月08日

キャラクターとはすなわち出落ちである

面白いキャラクターとは、
つまりはキャラ設定のことである。

つまり、その設定の披露であるところの、
登場場面が一番面白いわけで、
つまりはそれって出落ちなのだ。


濃くて面白いキャラほど、
出落ちになる。

だから、
出落ちで消費し切らないように、
別の側面(キャラ設定)を付加して、
二面性をつくるようにする。

出落ちのパターンを複数作って延命するわけだ。


そういえば、歌舞伎の伝統では、
人気役者が初登場する場面では、
○○屋!と屋号の掛け声で応援するのであった。
これはつまり、
役者絵なるブロマイドでの偶像による、
出落ちビジネスということだろう。
(しかも歌舞伎は同じ演目を繰り返す)


ストーリーのない、詰まらないコントを考えよう。

ある男が変な空間に行って、
奇妙な人に出会う。
これで出落ちで、
次の展開は、「次々に変な人に出会う」になりがちだ。
その変なキャラクターも出落ちだ。
で、適当なところで終わる。

つまり出落ち祭りでおしまい。

そういえば、松本人志の映画はこんな構造だね。


強すぎるキャラクターは、
出落ちになってしまい、
ストーリーを拒否する。

なぜなら、ストーリーとは変化のことであり、
キャラ設定を崩すことになるからだ。

最強設定をしてしまったら、
それを守らないとキャラクタービジネスにならない。

しかし、最強の男が敗北したり、
二度と戦えなくなったり、
敗北から立ち上がり最強を奪還する、
などが、ストーリーである。


ストーリーとキャラクターは、相反する部分を持つ。
ストーリーのためにキャラクターがある、
本来は互いに助け合うべきだ。

キャラクターばかり大事にすると、
出落ち祭り以外にストーリーがなくなり、
それは順番に見ている(スプレッド)だけで、
ストーリーではなくなっていく。

バラエティにストーリーがないのと同じになるね。


僕は宝塚歌劇における大階段のレビュウの部分がよく分からなかった。
あれは、出落ち祭りなのだと理解したら、
ははあなるほどと理解する。
歌とダンスも同じだね。

(そういえば、女の方が歌とダンスが好きなイメージがある。
生物の伝統では、オスがメスに求愛するために、
歌やダンスをしなければならない。
歌とダンスの受容体は、メスに多いのかもしれない)
posted by おおおかとしひこ at 10:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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