2019年03月10日

クラスタ

僕がこの言葉が嫌いなのは、
マスコミュニケーションをまだ信じているからかもしれない。


マーケティングの基本で、
客のターゲット層を決めるというものがある。
F1層むけとかそういうやつ。

クラスタはそれよりピンポイントだ。
アメリカで生まれたマーケティングの手法は、
男か女か、20代か30代か、
白人が黒人かヒスパニックか、
なんて属性で分割する。
(日本でよく使われるF1層は、女性female、20代30代のこと)
ついでに、低所得層か高所得層か、
という区別もあるだろう。
最近ではキリスト教、イスラム教の区別があるかもしれない。
多人種国家であるアメリカでは、
大体これらを抑えて、市場を俯瞰するわけである。

クラスタは、年齢とか層とかに関係ない、
「○○が好きな人」みたいな集団だ。
ある程度の年齢や性で分類した時に取りこぼす層でも、
クラスタなら取りこぼさない。
そして、あるクラスタが好きなクラスタというのもあるから、
マーケティング戦略が立てやすい。

そもそもアマゾンの、
「これに興味がある方はこれも見ています」方式は、
機械学習でクラスタ分けを自動化した、
最も一般的なモデルだ。

機械学習しなくとも、
それが好きな人は大体直感でわかるけど、
好きじゃない人でも数字で把握できるようにしたわけだね。

マーケットさえ見えれば、
どこにどれくらいの物量でしかければ読めると。



さて。

僕がこれが気にくわないのは、
すべてが「事前に読める」ことが前提になっているからだ。

この「読める」神話の出現によって、
「読めないことはしない」
という強固な怯えが、
そこかしこに生まれている。

世界を変える発明が世に出にくくなったのは、
このせいだ。

社運をかけた爆死を避けるために、
みんな読めることしかしなくなった。

だけど、少なくとも映画は、
クラスタやマーケティングで読めるものではないことが、
死屍累々の漫画実写化が示している。

なぜ映画にはクラスタ分けやマーケティングが通用しないのか?
それは、
映画とは「新しいことをすること」だからだ。

新しいことをするのに、読めることがあるわけがない。
予想はできる。
しかし予想を裏切ることが、新しいことだ。

僕は新しいことをしろと言っているが、
今投資家の支援を受け、
映画館にかかるのは、
新しいものではない。
巨額の金を動かすのに、
マーケティングやクラスタの理屈を使っているからだ。

それはある程度読めることをして、
ある程度読める結果を出せるけれど、
全く新しい概念を示したり、
全く違うクラスタをつなげることをしたり、
世の中の考え方を変えるようなことをしない。

かつてマスコミュニケーションがあったころは、
マーケティングもクソもなく、
一斉配信だったから、
偶然世界を変える新しいものが含まれていて、
それが世界を進歩させた。

今はそうではない。
新しいことをやろうとしても、
マーケティングとクラスタの賛同の保証がないと、
投資はされない。

かつては、
「半年間このお金で自由に予算組み」とか、
「10本単位で予算組み」だったものが、
一回勝負、一本勝負になって、
失敗できない恐怖から、
人はマーケティングやクラスタに頼るようになっていく。


結果どうなったか。
「多数のファンクラスタを持つ人気者が主演する」
ことだけが、数字の保証になってしまった。
無名の人がそこから火がつく、
という現象がなくなったのだ。

つまり、映画やテレビは、
上がりを掠めるジャンルに成り下がった。

それは、フロンティアではない。



もちろん、すべての映画やテレビがそうだとは言っていない。
冒険しようとしている人はたくさんいる。
しかし、中心に「現状の上がりを掠めよう」という人たちがいて、
「開発しておおきくしよう」という人たちを追いやっている限り、
市場は小さくなりつづけるだろう。

お菓子が小さくなっていくのと、
理屈としては同じだと僕は思う。


今の映画業界やテレビ業界が、
新しい才能に門戸を開いているとは、
あまり思えない。

もっとフロンティアで活躍した方がいいかもよ。
ユーチューバーもそろそろ終わりで、
次の何かはどこかで始まっていて、
それはネットが出てきた時に「今のものと違うね」
という違和感があったくらい、
違うものから出てくるだろう。


で、
その時に、
ストーリーというものの原則は、
変わらないんだよね。

特定のクラスタにしか響かないようなものは、
ストーリーとは言えないんだ。

誰でもが感情移入してしまうような、
脚本上の仕掛けが重要になってくる。

僕はそれについて書いているつもりで、
特定のことが好きな人が特定の人たちと盛り上がるものの、
作り方を書いているわけではない。


しかし、今の日本は、
クラスタわけで小分けになりすぎてしまったように感じる。
クラスタ以外のことを拒否する感じが、
中世の村社会に戻った、まであると思う。

こういうときに村々を渡れるのは、
さすらいの吟遊詩人だ。
彼は、どの村でも通用する話をする。
posted by おおおかとしひこ at 12:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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