僕がこの言葉が嫌いなのは、
マスコミュニケーションをまだ信じているからかもしれない。
マーケティングの基本で、
客のターゲット層を決めるというものがある。
F1層むけとかそういうやつ。
クラスタはそれよりピンポイントだ。
アメリカで生まれたマーケティングの手法は、
男か女か、20代か30代か、
白人が黒人かヒスパニックか、
なんて属性で分割する。
(日本でよく使われるF1層は、女性female、20代30代のこと)
ついでに、低所得層か高所得層か、
という区別もあるだろう。
最近ではキリスト教、イスラム教の区別があるかもしれない。
多人種国家であるアメリカでは、
大体これらを抑えて、市場を俯瞰するわけである。
クラスタは、年齢とか層とかに関係ない、
「○○が好きな人」みたいな集団だ。
ある程度の年齢や性で分類した時に取りこぼす層でも、
クラスタなら取りこぼさない。
そして、あるクラスタが好きなクラスタというのもあるから、
マーケティング戦略が立てやすい。
そもそもアマゾンの、
「これに興味がある方はこれも見ています」方式は、
機械学習でクラスタ分けを自動化した、
最も一般的なモデルだ。
機械学習しなくとも、
それが好きな人は大体直感でわかるけど、
好きじゃない人でも数字で把握できるようにしたわけだね。
マーケットさえ見えれば、
どこにどれくらいの物量でしかければ読めると。
さて。
僕がこれが気にくわないのは、
すべてが「事前に読める」ことが前提になっているからだ。
この「読める」神話の出現によって、
「読めないことはしない」
という強固な怯えが、
そこかしこに生まれている。
世界を変える発明が世に出にくくなったのは、
このせいだ。
社運をかけた爆死を避けるために、
みんな読めることしかしなくなった。
だけど、少なくとも映画は、
クラスタやマーケティングで読めるものではないことが、
死屍累々の漫画実写化が示している。
なぜ映画にはクラスタ分けやマーケティングが通用しないのか?
それは、
映画とは「新しいことをすること」だからだ。
新しいことをするのに、読めることがあるわけがない。
予想はできる。
しかし予想を裏切ることが、新しいことだ。
僕は新しいことをしろと言っているが、
今投資家の支援を受け、
映画館にかかるのは、
新しいものではない。
巨額の金を動かすのに、
マーケティングやクラスタの理屈を使っているからだ。
それはある程度読めることをして、
ある程度読める結果を出せるけれど、
全く新しい概念を示したり、
全く違うクラスタをつなげることをしたり、
世の中の考え方を変えるようなことをしない。
かつてマスコミュニケーションがあったころは、
マーケティングもクソもなく、
一斉配信だったから、
偶然世界を変える新しいものが含まれていて、
それが世界を進歩させた。
今はそうではない。
新しいことをやろうとしても、
マーケティングとクラスタの賛同の保証がないと、
投資はされない。
かつては、
「半年間このお金で自由に予算組み」とか、
「10本単位で予算組み」だったものが、
一回勝負、一本勝負になって、
失敗できない恐怖から、
人はマーケティングやクラスタに頼るようになっていく。
結果どうなったか。
「多数のファンクラスタを持つ人気者が主演する」
ことだけが、数字の保証になってしまった。
無名の人がそこから火がつく、
という現象がなくなったのだ。
つまり、映画やテレビは、
上がりを掠めるジャンルに成り下がった。
それは、フロンティアではない。
もちろん、すべての映画やテレビがそうだとは言っていない。
冒険しようとしている人はたくさんいる。
しかし、中心に「現状の上がりを掠めよう」という人たちがいて、
「開発しておおきくしよう」という人たちを追いやっている限り、
市場は小さくなりつづけるだろう。
お菓子が小さくなっていくのと、
理屈としては同じだと僕は思う。
今の映画業界やテレビ業界が、
新しい才能に門戸を開いているとは、
あまり思えない。
もっとフロンティアで活躍した方がいいかもよ。
ユーチューバーもそろそろ終わりで、
次の何かはどこかで始まっていて、
それはネットが出てきた時に「今のものと違うね」
という違和感があったくらい、
違うものから出てくるだろう。
で、
その時に、
ストーリーというものの原則は、
変わらないんだよね。
特定のクラスタにしか響かないようなものは、
ストーリーとは言えないんだ。
誰でもが感情移入してしまうような、
脚本上の仕掛けが重要になってくる。
僕はそれについて書いているつもりで、
特定のことが好きな人が特定の人たちと盛り上がるものの、
作り方を書いているわけではない。
しかし、今の日本は、
クラスタわけで小分けになりすぎてしまったように感じる。
クラスタ以外のことを拒否する感じが、
中世の村社会に戻った、まであると思う。
こういうときに村々を渡れるのは、
さすらいの吟遊詩人だ。
彼は、どの村でも通用する話をする。
2019年03月10日
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