まだ確信がないが、
どうにも違う様な気がしていて、
その仮説を述べてみる。
相変わらず、統計的に見て、
という話で、個人によって例外は沢山あり得る。
男は、「自分ならどう切り抜けるか」という
シミュレーション的見方をしていて、
女は、「気持ちに共感(同調)」する見方をしている。
有名な、
「車のライトがつかないの」
というコピペがある。
女は自分の気持ちに同調してほしいだけであり、
問題の解決を求めているわけではない、
という傾向をうまく表現したものだ。
これは逆から見れば、
男は問題の解決を第一に考えてほしいのであり、
気持ちの同調など知ったことか、
ということに他ならない。
物語とは、「困った状況を、いかに切り抜けるか」
ということだ。
つまり「車のライトがつかない」
などのようなシチュエーションを解決することと同じということだ。
男はつまり、困った状況において、
原因は何か、ここがおかしいのではないか、
これを試してみて問題があるなら問題の切り分けが出来る、
思ったことと違ったら、どこか別のところを見落としていないか、
などのように考える。
(なるほど騙されていた、というどんでん返しが面白いのは、
自分のシミュレーションが覆されるからだ)
女はそうは考えない。
(極論しています)
どう困ったのか、いまどういう気持ちなのか、
分ってほしいと考えるため、
いま困った状況に対して、困ったと同調する。
しかも男よりずいぶん深く。
これが、おそらくは、
「くらいトンネルのような物語を、
女が嫌がる理由」
だろうというのが、この記事の趣旨だ。
困ったことの解決が娯楽であるからには、
それが面白い問題である必要がある。
それは困れば困るほど面白い。
暗い、いやな目に遭えば遭うほど、
どうしたらこれを切り抜けられるのか、
というシミュレーションが面白くなる。
だから、男は暗いトンネル型の物語が好きだ。
自分のシミュレーションとの答え合わせが待っているからだ。
つまり、
そういう人にとって面白い物語は、
「まだ解いたことのない問題であり、
難し過ぎず易し過ぎず、
しかも徐々にベールがはがされていくような、
理解の順番が進むようなもので、
しかも自分をぎりぎり超えるような解決がある」
であることが必要になってくる。
一方、女にとっての物語は、
「好ましい同調感情に満ち溢れていること」
が大事だ。
マゾでない限り、
マイナスの感情は忌避され、
プラスの感情に支配され続けることが大事になってくる。
男にとってたいしておもしろくないスイーツ系映画が、
なぜ女に受けるのか、これで理解できる。
「プラスの感情が、多いほうがいい」からだ。
これは、脚本における「困難の解決」とは、
異なる次元のものである。
つまり、(安易に)女が喜ぶものをつくると、
物語ではなくなり、
「好ましい状態が延々続く」
という静止画になってしまうという警告である。
(二次創作でそういう瞬間だけを延々描く、
つまり萌えを描くことは、物語が書けないのではなく、
そもそも違うものを求めているからだ、と考えられる。
とくに女性の描くものにそういった傾向が強いことは事実。
ぜんぶみたわけじゃないけど)
逆に、男がただ喜ぶものをつくると、
「ただ解決だけが重要で、
感情の解放や同調がないものになる」
という欠点を抱えることになるだろう。
両方の欠点を克服しなければならない。
双方にいい顔をしようとすると、
「適当な事件解決がある、感情の同調もぬるいもの」
という失敗作になるだろう。
「ものすごく面白い事件解決もので、
しかも感情の上下がはげしく、
最後にはものすごいハッピーになるもの」
が理想だ。
さて。
この男女論は仮説であり、
僕の経験的偏見によって書かれている。
根拠はないが、マスで見れば大体あっているように思える。
もちろん、個人では例外も沢山いるだろう。
なんの為に物語を見るのか?
解決のシミュレーションを面白く想像するためか?
幸せな気持ちに浸る時間を増やしたいからか?
女に受ける男のアイドルやホストは、
幸せな気持ちに浸る時間の提供の達人だ。
男に受ける女のアイドルやキャバ嬢は、目標達成に対して協力を頼んでくる。
目標達成ストーリーの協力者になってくれと頼む。
どちらも、よく心理をついていると思う。
僕の男女論は、偏見に満ちている可能性がある。
信用するもしないもご自由に。
ただ、双方の群れにいい顔をして、
どっちも喜ばないものをつくるべきではない。
マーケティングだけを見ていると、
そういうものしかなくなってゆく。
2019年03月22日
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