役者に役が憑依するなんてよくいうよね。
その役はどこから来たのか?
脚本に書いてあるわけだ。
じゃあそもそも、脚本家に憑依しているわけで。
役者の憑依はそのストーリーの中でひとつだが、
脚本家にはその登場人物ぶんの憑依が必要だ。
恐山のイタコでも難しいだろう、
この同時憑依はどのようにしてなされるのか。
そのメカニズムは多重人格だと僕は考えている。
自分の中を観察しよう。
自分の人格は、たったひとつか?
一見ひとつのように統合されて見えている。
しかし怒りっぽい時もあれば、
悲観的な時もあれば、
陽気な時もあるだろう。
それは、外的刺激からもたらされる反応の場合もあるが、
そうでない場合もある。
理由なき気分の変化が人にはあると思う。
全く同じ感情のパターンで動くならそれはロボットに過ぎず、
私たち人間は、
ぶれがある。
あるいは、
嫌いな人の前での自分の人格と、
好きな人の前での自分の人格は、
おそらく異なるだろう。
人を事に置き換えても同じだろう。
時間帯によって、日によって、季節によって、
気圧によっても人は人格が異なる。
(とくに気圧は、鬱と関連性が高い)
多重人格というと、
ジキルとハイドのようなまるで異なる人格を想像するけれど、
同じ自分の中の振れ幅、
と考えると理解できる。
極端に振れない、
微妙に異なる自分を想像することは可能だろう。
それが極端に振れ幅があったときを想像することも、
すぐに出来るだろう。
公私の別を分ける人ほど、
極端な振れ幅があるだろう。
酒を飲んだり車を運転すると別人格になる人は、
普段何かで抑えていて、抑制が効かなくなったり、
自分の支配範囲が広くなると、
タガの外れた人格になる。
普段抑えている力が強いほど、
振れ幅は大きくなるはずである。
さて。
憑依現象は、
自分と全く別の霊によってなされるのか?
そのように感じる時もあるけれど、
実はそうではないと僕は考える。
自分の中の、
○○な側面が、そういうキャラクターになるだけだと、
僕は考えている。
そう、つまり、
登場人物とは、
あなたの中の○○な側面の、擬人化(キャラクタライズ)に、
他ならないのだ。
悪役はあなたの中の悪い面の擬人化で、
正義の味方は、あなたの中の正義の擬人化だ。
陽気なキャラはあなたの中の全能感の擬人化で、
陰気なキャラはあなたの中の悲観の擬人化だ。
そして当然だけど、
人間にはさまざまな面がある。
悪役だから24時間悪いわけではなく、
その中に正しいことをしようとする面もある。
正義の味方だっていたずらをしたり、
悪いことを考えたりもする。
それは、あなたの中の、
正義と悪の両極端に振れた、
「間の部分」だと僕は思う。
陽気や陰気も同じで、
そして、人の評価軸はそれだけではないということだ。
優しい、厳しい、頭がいい、バカ、
強引、優柔不断、早合点、腰が重い、
細かい、大雑把、鈍い、鋭い、
などなどなど、
いくらでも人の性格や側面について、
探して行くことはできるだろう。
ある一人のキャラクターについて、
メイン性格やサブ性格をつくれば、
色々なプロフィールを作ることができると思う。
そういったとき、
僕は星占いを参考にする。
色々な、自分の気づいてない自分の側面に気づくためだ。
自分はAとBとCだと思う、
と自分では思っているが、
DやFやGの部分もあるにはあるなあ、
ということに気づけると、
そういったキャラクターを作ることが出来るだろう。
こうして、
様々な性格や側面を持つキャラクターが生まれて行く。
自分が分化していく、とも捉えられるし、
自分が重なり合う、とも捉えられる。
つまり、作品の中に、わたしは遍在する。
これが、
他人のキャラをパクって持ってくるだけだと、
全くうまくいかない。
自分じゃないからだ。
他人と自分の会話はたいていうまくいかない。
つまり、殆どの会話シーンは、
自分の中のAという側面と、
自分の中のFという側面が、
脳内で会話をすることに似ている。
(昔漫画でよくあった、
肩の上に小さい天使と悪魔が囁くのと同じだ。
天使的側面と悪魔的側面以外の要素を持って来れば、
それで出来るわけだ)
これが多重人格症と違うのは、
「わたしは意図的にこれを制御している」
という監視人格(統合人格)が存在することだ。
自分(=監視人格)の手を離れて勝手に動くことは、
よく経験することだが、
自分が書かなければなかったことになる。
多重人格は監視人格の消失により、
互いの人格が連絡が取れなくなり、
ひとつの体の中で、
気分転換のように人格が入れ替わって見えてしまうことだ。
本人の自覚ができないところが、
苦しい部分なのである。
(その意味で、ほんらい統合失調という名称は、
こちらの名称にするべきではないか、
などと考えるが、まあそこはどうでもよい)
さて、
ということで、
人はほんらい多重人格である。
ある人に甘えたいのに同時に意地悪をしたくもなる。
それらを上手に観察すれば、
それをキャラクターにすることが出来るだろう。
もちろん、あなたは万能ではないから、
得意な人格とそうでないのがあるのはたしかだ。
憑依とはつまり、
自分の中に様々な側面があることを観察して、
それを擬人化できるかどうかと、
関係していると僕は思う。
慣れれば、数人格同士の会話など造作なくなる。
瞬時に切り替えることができるようになる。
初心者がよく「二人の場面しか書けない」
という欠点があるけど、
それは人格切り替えの上限が2だからだ。
「人間にはさまざまな側面がある」ことの理解が2で止まっているか、
3以上の要素を扱うのが下手なのかのどちらかだ。
人間にはさまざまな側面があり、
それを理解することは、
感情移入とも関係していると思う。
なぜ他人の書いた他人の話を、
私たちはまるで自分のように思うことができるのか、
ということの答えがこれだ。
私たちは、自分と他人の似た側面を理解できるのだ。
女性の方がより感情移入が得意なのは、
女性の方がもともと感情が豊かだから、
だと僕は考えている。
様々な側面があればあるほど、
様々な共通点を見つけるのが得意だと僕は思う。
(もちろんこれは統計的な話で、個人差がある)
これは、
同様に、
「役者がなぜ様々な役を憑依させることができるのか」
の答えでもある。
上手な役者は、
自分との感情的共通点を見つけるのがうまい。
「まるでその人になっている」
のは外に見えた結果に過ぎず、
その本体は、自分の中のそのキャラっぽい側面を出しているのだ。
カメレオン俳優、いっぱいキャラを作れる脚本家は、
感情が豊かで、観察力があるということだね。
同時に、豊か過ぎて不安定に見えることがあるかもしれない。
憑依現象は、
長いストーリーを書いたことがあるなら、
ほぼ全員が遭遇する現象だ。
メカニズムさえわかっていれば、
どうすればそれを起こせるのか、
どうすれば制御できるのか、
いま何が起こっているのかを、
冷静に見れると思う。
冷静と情熱は、同居する狂気である。
で、
役者が勉強のために遊ぶことは、
様々な感情や人のあり方を学ぶためにするのだ。
脚本家がそうしない理由がわからない。
沢山のキャラを憑依させるには、
自分の中にそれがないといけないからね。
役者は盗むためにやるかもしれない。
外面的なこともやるからだ。
我々は内面を主に観察して、
自分との共通点をさがす。
2019年03月24日
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