2019年03月24日

憑依現象

役者に役が憑依するなんてよくいうよね。
その役はどこから来たのか?
脚本に書いてあるわけだ。

じゃあそもそも、脚本家に憑依しているわけで。
役者の憑依はそのストーリーの中でひとつだが、
脚本家にはその登場人物ぶんの憑依が必要だ。

恐山のイタコでも難しいだろう、
この同時憑依はどのようにしてなされるのか。

そのメカニズムは多重人格だと僕は考えている。


自分の中を観察しよう。

自分の人格は、たったひとつか?
一見ひとつのように統合されて見えている。

しかし怒りっぽい時もあれば、
悲観的な時もあれば、
陽気な時もあるだろう。

それは、外的刺激からもたらされる反応の場合もあるが、
そうでない場合もある。
理由なき気分の変化が人にはあると思う。

全く同じ感情のパターンで動くならそれはロボットに過ぎず、
私たち人間は、
ぶれがある。

あるいは、
嫌いな人の前での自分の人格と、
好きな人の前での自分の人格は、
おそらく異なるだろう。
人を事に置き換えても同じだろう。

時間帯によって、日によって、季節によって、
気圧によっても人は人格が異なる。
(とくに気圧は、鬱と関連性が高い)


多重人格というと、
ジキルとハイドのようなまるで異なる人格を想像するけれど、
同じ自分の中の振れ幅、
と考えると理解できる。

極端に振れない、
微妙に異なる自分を想像することは可能だろう。
それが極端に振れ幅があったときを想像することも、
すぐに出来るだろう。

公私の別を分ける人ほど、
極端な振れ幅があるだろう。
酒を飲んだり車を運転すると別人格になる人は、
普段何かで抑えていて、抑制が効かなくなったり、
自分の支配範囲が広くなると、
タガの外れた人格になる。
普段抑えている力が強いほど、
振れ幅は大きくなるはずである。


さて。

憑依現象は、
自分と全く別の霊によってなされるのか?
そのように感じる時もあるけれど、
実はそうではないと僕は考える。

自分の中の、
○○な側面が、そういうキャラクターになるだけだと、
僕は考えている。

そう、つまり、
登場人物とは、
あなたの中の○○な側面の、擬人化(キャラクタライズ)に、
他ならないのだ。

悪役はあなたの中の悪い面の擬人化で、
正義の味方は、あなたの中の正義の擬人化だ。
陽気なキャラはあなたの中の全能感の擬人化で、
陰気なキャラはあなたの中の悲観の擬人化だ。

そして当然だけど、
人間にはさまざまな面がある。
悪役だから24時間悪いわけではなく、
その中に正しいことをしようとする面もある。
正義の味方だっていたずらをしたり、
悪いことを考えたりもする。
それは、あなたの中の、
正義と悪の両極端に振れた、
「間の部分」だと僕は思う。

陽気や陰気も同じで、
そして、人の評価軸はそれだけではないということだ。
優しい、厳しい、頭がいい、バカ、
強引、優柔不断、早合点、腰が重い、
細かい、大雑把、鈍い、鋭い、
などなどなど、
いくらでも人の性格や側面について、
探して行くことはできるだろう。

ある一人のキャラクターについて、
メイン性格やサブ性格をつくれば、
色々なプロフィールを作ることができると思う。

そういったとき、
僕は星占いを参考にする。
色々な、自分の気づいてない自分の側面に気づくためだ。
自分はAとBとCだと思う、
と自分では思っているが、
DやFやGの部分もあるにはあるなあ、
ということに気づけると、
そういったキャラクターを作ることが出来るだろう。


こうして、
様々な性格や側面を持つキャラクターが生まれて行く。
自分が分化していく、とも捉えられるし、
自分が重なり合う、とも捉えられる。

つまり、作品の中に、わたしは遍在する。


これが、
他人のキャラをパクって持ってくるだけだと、
全くうまくいかない。
自分じゃないからだ。
他人と自分の会話はたいていうまくいかない。

つまり、殆どの会話シーンは、
自分の中のAという側面と、
自分の中のFという側面が、
脳内で会話をすることに似ている。
(昔漫画でよくあった、
肩の上に小さい天使と悪魔が囁くのと同じだ。
天使的側面と悪魔的側面以外の要素を持って来れば、
それで出来るわけだ)


これが多重人格症と違うのは、
「わたしは意図的にこれを制御している」
という監視人格(統合人格)が存在することだ。
自分(=監視人格)の手を離れて勝手に動くことは、
よく経験することだが、
自分が書かなければなかったことになる。

多重人格は監視人格の消失により、
互いの人格が連絡が取れなくなり、
ひとつの体の中で、
気分転換のように人格が入れ替わって見えてしまうことだ。
本人の自覚ができないところが、
苦しい部分なのである。
(その意味で、ほんらい統合失調という名称は、
こちらの名称にするべきではないか、
などと考えるが、まあそこはどうでもよい)


さて、
ということで、
人はほんらい多重人格である。
ある人に甘えたいのに同時に意地悪をしたくもなる。
それらを上手に観察すれば、
それをキャラクターにすることが出来るだろう。

もちろん、あなたは万能ではないから、
得意な人格とそうでないのがあるのはたしかだ。

憑依とはつまり、
自分の中に様々な側面があることを観察して、
それを擬人化できるかどうかと、
関係していると僕は思う。

慣れれば、数人格同士の会話など造作なくなる。
瞬時に切り替えることができるようになる。
初心者がよく「二人の場面しか書けない」
という欠点があるけど、
それは人格切り替えの上限が2だからだ。
「人間にはさまざまな側面がある」ことの理解が2で止まっているか、
3以上の要素を扱うのが下手なのかのどちらかだ。



人間にはさまざまな側面があり、
それを理解することは、
感情移入とも関係していると思う。
なぜ他人の書いた他人の話を、
私たちはまるで自分のように思うことができるのか、
ということの答えがこれだ。

私たちは、自分と他人の似た側面を理解できるのだ。

女性の方がより感情移入が得意なのは、
女性の方がもともと感情が豊かだから、
だと僕は考えている。
様々な側面があればあるほど、
様々な共通点を見つけるのが得意だと僕は思う。
(もちろんこれは統計的な話で、個人差がある)


これは、
同様に、
「役者がなぜ様々な役を憑依させることができるのか」
の答えでもある。
上手な役者は、
自分との感情的共通点を見つけるのがうまい。
「まるでその人になっている」
のは外に見えた結果に過ぎず、
その本体は、自分の中のそのキャラっぽい側面を出しているのだ。

カメレオン俳優、いっぱいキャラを作れる脚本家は、
感情が豊かで、観察力があるということだね。
同時に、豊か過ぎて不安定に見えることがあるかもしれない。


憑依現象は、
長いストーリーを書いたことがあるなら、
ほぼ全員が遭遇する現象だ。
メカニズムさえわかっていれば、
どうすればそれを起こせるのか、
どうすれば制御できるのか、
いま何が起こっているのかを、
冷静に見れると思う。
冷静と情熱は、同居する狂気である。


で、
役者が勉強のために遊ぶことは、
様々な感情や人のあり方を学ぶためにするのだ。
脚本家がそうしない理由がわからない。
沢山のキャラを憑依させるには、
自分の中にそれがないといけないからね。
役者は盗むためにやるかもしれない。
外面的なこともやるからだ。
我々は内面を主に観察して、
自分との共通点をさがす。
posted by おおおかとしひこ at 13:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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