物語は問題の解決である。
しかし、誰も興味を持てない問題はスルーされる。
そういう意味で、
究極的に誰もが理解できる問題で、
しかもタイムリミットがある問題は、
「地球滅亡まであと〇時間」
というやつだ。
たいていのSFでは、これが使われることが多い。
おおげさな道具やメカがでてきやすいし、
しかも誰もが理解できる問題で、
その解決にはカタルシスがあるからだ。
アルマゲドンや宇宙戦艦ヤマトを例にひくまでもないだろう。
ところで、
他に似た問題があるだろうか。
「部活が消滅の危機」
「学校が統合でなくなるかも」
「会社が倒産するかも」
「家族が解散するかも」
などだろうか。
それが提出されても、
地球滅亡ほど私達がのめらないのは、
「それはそれとしてわかるが、
まあ所詮他人だし」
という要素だろう。
しかし、これが感情移入があるとしたら?
それは大変だ、ってなる確率があがる。
そこなのだ。
他人が何を右往左往しようが、
どうでもいいかどうかは、
その人に近しい感情を抱くかどうかで決まるのだ。
自分と関係ない人について、
人はどこまでも冷たい。
だから、観客にとって、とても身近な人にするのだ。
人気芸能人を使うとか、ターゲット層に近い年齢にする、
というのは非常に外面的な方法だ。
それは脚本でやることではない。
たとえばオッサンが女子高生を演じることを考えよう。
最初はオッサンだったのに、
いつの間にか彼が女子高生に見えて来るようになるのは、どうした理由だろうか。
外見ではなく、内面が女子高生になっている、
ということではないだろうか。
恋や進路に悩み、外見をどうにか飾ろうとし、
綺麗な子に嫉妬して、うまく恋を進められない、
そんな見た目オッサンだが中身は女子高生、
という役があったとしたら、
それは女子高生に見えてくるというものだ。
そういったディテールを提供するのが、
脚本の仕事なのだ。
つまり、オッサンなのに女子高生に見えてきた時点で、
感情移入が出来ていることになる。
フィルムマジックが成立していることになる。
で、ここの時点で、彼女の部活が消滅の危機、
となり、彼女が託した夢が消滅してしまうかもしれない、
なんて展開になると、
我々は身を乗り出して、
彼女の心配をし始めるのだ。
そして、彼女が消滅の危機を乗り越えようとする、
ひとつひとつのアイデアに喝采を送ったり、
消滅させようとするライバルの卑劣な行動に怒り、
それをぎゃふんと言わせる主人公に快哉を叫ぶのである。
見た目オッサンでもだ。
地球滅亡の危機は、
その複雑な感情移入のプロセスを、
まったく飛ばしてしまっている。
だから、安易な危機だといえる。
逆に、地球滅亡の危機の物語は、
それとは別のところでキャラクターへの感情移入をつくっておかないと、
面白く無い物語になるだろうね。
つまりは、感情移入を、
どれだけ速くつくれるか、
ということが、のめりこみに関係するわけだ。
感情移入をおこさせるのはとてもむずかしい。
それに関しては過去記事にたくさん書いた。
我々と近い人に起こす感情移入ではなく、
我々と遠い人に起こす感情移入こそが、
脚本上の、感情移入だと僕はかんがえる。
それは、安易な危機か?
だとしたら、感情移入は十分か?
物語は危機の解決であるが、
感情移入を伴う解決でなければならない。
2019年03月25日
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