2019年03月25日

地球滅亡という文脈

物語は問題の解決である。
しかし、誰も興味を持てない問題はスルーされる。
そういう意味で、
究極的に誰もが理解できる問題で、
しかもタイムリミットがある問題は、
「地球滅亡まであと〇時間」
というやつだ。


たいていのSFでは、これが使われることが多い。
おおげさな道具やメカがでてきやすいし、
しかも誰もが理解できる問題で、
その解決にはカタルシスがあるからだ。
アルマゲドンや宇宙戦艦ヤマトを例にひくまでもないだろう。

ところで、
他に似た問題があるだろうか。

「部活が消滅の危機」
「学校が統合でなくなるかも」
「会社が倒産するかも」
「家族が解散するかも」
などだろうか。

それが提出されても、
地球滅亡ほど私達がのめらないのは、
「それはそれとしてわかるが、
まあ所詮他人だし」
という要素だろう。

しかし、これが感情移入があるとしたら?
それは大変だ、ってなる確率があがる。

そこなのだ。

他人が何を右往左往しようが、
どうでもいいかどうかは、
その人に近しい感情を抱くかどうかで決まるのだ。
自分と関係ない人について、
人はどこまでも冷たい。
だから、観客にとって、とても身近な人にするのだ。

人気芸能人を使うとか、ターゲット層に近い年齢にする、
というのは非常に外面的な方法だ。
それは脚本でやることではない。

たとえばオッサンが女子高生を演じることを考えよう。
最初はオッサンだったのに、
いつの間にか彼が女子高生に見えて来るようになるのは、どうした理由だろうか。
外見ではなく、内面が女子高生になっている、
ということではないだろうか。
恋や進路に悩み、外見をどうにか飾ろうとし、
綺麗な子に嫉妬して、うまく恋を進められない、
そんな見た目オッサンだが中身は女子高生、
という役があったとしたら、
それは女子高生に見えてくるというものだ。

そういったディテールを提供するのが、
脚本の仕事なのだ。

つまり、オッサンなのに女子高生に見えてきた時点で、
感情移入が出来ていることになる。
フィルムマジックが成立していることになる。

で、ここの時点で、彼女の部活が消滅の危機、
となり、彼女が託した夢が消滅してしまうかもしれない、
なんて展開になると、
我々は身を乗り出して、
彼女の心配をし始めるのだ。
そして、彼女が消滅の危機を乗り越えようとする、
ひとつひとつのアイデアに喝采を送ったり、
消滅させようとするライバルの卑劣な行動に怒り、
それをぎゃふんと言わせる主人公に快哉を叫ぶのである。
見た目オッサンでもだ。


地球滅亡の危機は、
その複雑な感情移入のプロセスを、
まったく飛ばしてしまっている。
だから、安易な危機だといえる。

逆に、地球滅亡の危機の物語は、
それとは別のところでキャラクターへの感情移入をつくっておかないと、
面白く無い物語になるだろうね。

つまりは、感情移入を、
どれだけ速くつくれるか、
ということが、のめりこみに関係するわけだ。

感情移入をおこさせるのはとてもむずかしい。
それに関しては過去記事にたくさん書いた。
我々と近い人に起こす感情移入ではなく、
我々と遠い人に起こす感情移入こそが、
脚本上の、感情移入だと僕はかんがえる。

それは、安易な危機か?
だとしたら、感情移入は十分か?
物語は危機の解決であるが、
感情移入を伴う解決でなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 16:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。