2019年03月26日

デジタルは人を幸せにしない:コピペが学習を阻害している

デジタルのいいところは、アンドゥと無限コピペだと考える。
それがよくないという話をしよう。

デジタルのない時代を考える。
学習はどうやってなされたか?


学ぶとはまねぶ、という格言?がある。
まねをすることで、人は学習をしてきた。
餌をとる親をまねて、子は獲物を獲れるようになるのだ。

絵を描くのも、模写というやり方がある。
そもそも絵は現実の模写であるが、
「どうそれをやってのけたのか」
ということを、「絵具で再現する」ことで、
どうやったのかを学習するのである。


文章修行でも同じで、人の原稿を清書することで、
勉強になることがある。
こういう風に言葉を使うのかとか、
こういう構成になっているのか、とかは、
実際に書いてみるとよくわかる。

遠くから見ていても良く分らないことが、
原稿とペンの距離感で理解できる。

そもそも、
最初から最後まで真似してみることで、
全体像を俯瞰できるようになったり、
必要な体力や資源の使いかたを見積もれるようになる。

まったくわからないことをまったくわからないままやるより、
誰かがやることを真似することで、
学習が行われるということだ。

武術や芸道でも同様で、
見取り稽古というものがある。
一時間だけ見学、では意味がなくて、
稽古の初めから最後まで見ることで、
全体を疑似体験する。
そうすることで、形を自分の中に入れていく。
日常から形の完成への、全体像を俯瞰するのだ。


これを何回もやり、
先人のものが何もみなくても再現できるようになると、
自分なりのアレンジをいれたくなってくる。
守破離である。
守で基本ができて来たら、
破でセオリーを破ったらどうなるか実験し、
自分なりのセオリー破りを作り出し、
離でまったく基本と違った新しい基本を打ち立てる。

そこに基本で学んだことは一見まったく入っていないが、
実は溶け込んで入っている、
という在り方が、守破離の理想だ。

そうしたことをするには、
かつては、アナログで延々真似していくことしかなかった。

デジタルがそれをショートカット出来るような気にさせる。
コピペによってである。


すでに出来合いのものを、
コピペすると、そこがよくできているように見える。
そうすると、それで終わりにしてしまう。
なぜなら、
そこに自分のアレンジをいれると、
もともとの完成度が下がるしかないからだ。

アナログによる模写だとそうはいかない。

模写が上手くならないと、
真似が上手くならないと、
出来合いのものがそこに持ってこれないからである。
つまり、模写がある程度できるようになったら、
基礎がすでにできている、
ということなのだ。
だからアレンジがすぐにできるようになるのだ。

デジタルのコピペはそうではない。
誰でもコントロールCVで持ってこれるゆえに、
模写の能力を必要としなくなった。
それゆえ、基本の能力がつかないまま、
ただ時間が過ぎている、
という悪循環が流れている。

出来合いのものを探す検索力と、
それらを並べる力だけが問われて、
模写したり、結果、オリジナルを開発する力が失われる。

オリジナルとは過去の理解が前提だ。
過去を超えないとオリジナルとは言えない。
誰かが安易に考えて実行したものは、
たいてい過去にある。

だからオリジナルは模写からはじまる。
過去を勉強するためである。
その模写をする時間を、デジタルだと0にされている。

逆に、デジタル時代は不幸だ。

模写が出来なければ、
オリジナルなど作れなかった時代のほうが、
苦労が多いが幸福だ。
出来ない人が、さっさと諦められたからだ。
淘汰が行われたからだ。

デジタルのコピペ時代は、
「クリエイターになりたいが実力がないやつ」が、
出来合いのものをうまく並べることで仕事になってしまっていて、
模写して地道にやっているやつより、
速く出世してしまう。

だから、長い時間をかけて模写するのが、
馬鹿馬鹿しくなる。
さっさと見栄えのいいものをコピペして作ってしまえば、
特急に乗れると勘違いする。
しかもコピペは見栄えのいいものを持ってくるから、
出来たような気になる。

本当は何もつくっていないのに、
つくった気になる。

逆に、それが「つくること」だと勘違いする。
それが不幸だ。


コピペしてショートカットされるその間には、
模写して失敗したり、それをリカバリーしたり、
失敗しながら理解を深めた時間が、
まるでカットされている。
つまり氷山の下の部分が0になる。
それがコピペだ。

こうして、
見栄えだけはいいが中身のない、
どこかで見た様な作品を「つくる」クリエイターが増え、
一から努力することは、
誰もやらない社会が到来する。

つまり、誰もつくっていないし、
誰もつくるということを理解しなくなる。

アナログ時代のほうが幸せだったのは、
少なくとも、模写できないやつは、
つくる資格がなかったことだ。

そして、学習初期の頃、
ある程度模写ができたら、
「お前うまいな」と言われたことだ。
これが、自信に繋がっていた。

人生の頃最初に褒められたやつは、
一生自信がある。

一見形の整っているコピペと、
手書きの写しをならべると、
素人が上手いと褒めるのはコピペのほうで、
手書きの子は一番大事な自信を得るチャンスがなくなる。

実はこれのほうが不幸かも知れない。
ショートカットしたほうが褒められると、
勘違いしてしまう。


かつては資料だって模写したし、
模写が上手いやつは、
一回資料を見ればあとは見なくてもコピーできた。
模写の能力そのものが、学習能力といっても、
過言ではなかった。
模写することで、学習能力をも高めたのだ。

表面に見えたものをコピーすることと模写は違う。
模写は理解である。
理解しなければ、模写できない。
デッサンでもそうだけど、
人体の構造を理解していないと絵がちゃんと描けない。
描くことで理解するのが、そもそも模写の目的なのだ。

人工知能による言語と同じだ。
表面は言葉になっているように思える。
しかしストーリーやテーマ、もっといえば、
その奥底にあるべき思考や意志がない。


模写を飛ばしてきたやつらが、
いま第一線にきているから、
もう地道に模写することなんて、
誰もやっていないし、
それを教えようとする正しい教師は、
ただめんどくさがられる。
「俺たちはライフハックをゲットしたい」
と本気で思っている可能性がある。
(僕がその最初の違和感を感じたのは、
「マトリックス」で、拳法を脳にダウンロードする場面。
ピロピロピロ、「I know Kung-Fu」とキアヌがドヤ顔して、
そんなあほなと突っ込んだものだ)



こうして、
どこかで見たようなコピペの組合せが増え、
それがつくることと誤解され、
つまらないものばかりに埋められていく。


原因はたったひとつ。コピペだ。

それが人を怠惰にし、
人をショートカットしたような気にさせ、
理解そのもの、革新そのものを遠ざけたのだ。

デジタル世代は不幸だ。
まねの深みを知らずに育ってしまった。



デジタルは人を幸せにしない。
ものづくりの本質から、人を遠ざけている。
posted by おおおかとしひこ at 13:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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