デジタルのいいところは、アンドゥと無限コピペだと考える。
それがよくないという話をしよう。
デジタルのない時代を考える。
学習はどうやってなされたか?
学ぶとはまねぶ、という格言?がある。
まねをすることで、人は学習をしてきた。
餌をとる親をまねて、子は獲物を獲れるようになるのだ。
絵を描くのも、模写というやり方がある。
そもそも絵は現実の模写であるが、
「どうそれをやってのけたのか」
ということを、「絵具で再現する」ことで、
どうやったのかを学習するのである。
文章修行でも同じで、人の原稿を清書することで、
勉強になることがある。
こういう風に言葉を使うのかとか、
こういう構成になっているのか、とかは、
実際に書いてみるとよくわかる。
遠くから見ていても良く分らないことが、
原稿とペンの距離感で理解できる。
そもそも、
最初から最後まで真似してみることで、
全体像を俯瞰できるようになったり、
必要な体力や資源の使いかたを見積もれるようになる。
まったくわからないことをまったくわからないままやるより、
誰かがやることを真似することで、
学習が行われるということだ。
武術や芸道でも同様で、
見取り稽古というものがある。
一時間だけ見学、では意味がなくて、
稽古の初めから最後まで見ることで、
全体を疑似体験する。
そうすることで、形を自分の中に入れていく。
日常から形の完成への、全体像を俯瞰するのだ。
これを何回もやり、
先人のものが何もみなくても再現できるようになると、
自分なりのアレンジをいれたくなってくる。
守破離である。
守で基本ができて来たら、
破でセオリーを破ったらどうなるか実験し、
自分なりのセオリー破りを作り出し、
離でまったく基本と違った新しい基本を打ち立てる。
そこに基本で学んだことは一見まったく入っていないが、
実は溶け込んで入っている、
という在り方が、守破離の理想だ。
そうしたことをするには、
かつては、アナログで延々真似していくことしかなかった。
デジタルがそれをショートカット出来るような気にさせる。
コピペによってである。
すでに出来合いのものを、
コピペすると、そこがよくできているように見える。
そうすると、それで終わりにしてしまう。
なぜなら、
そこに自分のアレンジをいれると、
もともとの完成度が下がるしかないからだ。
アナログによる模写だとそうはいかない。
模写が上手くならないと、
真似が上手くならないと、
出来合いのものがそこに持ってこれないからである。
つまり、模写がある程度できるようになったら、
基礎がすでにできている、
ということなのだ。
だからアレンジがすぐにできるようになるのだ。
デジタルのコピペはそうではない。
誰でもコントロールCVで持ってこれるゆえに、
模写の能力を必要としなくなった。
それゆえ、基本の能力がつかないまま、
ただ時間が過ぎている、
という悪循環が流れている。
出来合いのものを探す検索力と、
それらを並べる力だけが問われて、
模写したり、結果、オリジナルを開発する力が失われる。
オリジナルとは過去の理解が前提だ。
過去を超えないとオリジナルとは言えない。
誰かが安易に考えて実行したものは、
たいてい過去にある。
だからオリジナルは模写からはじまる。
過去を勉強するためである。
その模写をする時間を、デジタルだと0にされている。
逆に、デジタル時代は不幸だ。
模写が出来なければ、
オリジナルなど作れなかった時代のほうが、
苦労が多いが幸福だ。
出来ない人が、さっさと諦められたからだ。
淘汰が行われたからだ。
デジタルのコピペ時代は、
「クリエイターになりたいが実力がないやつ」が、
出来合いのものをうまく並べることで仕事になってしまっていて、
模写して地道にやっているやつより、
速く出世してしまう。
だから、長い時間をかけて模写するのが、
馬鹿馬鹿しくなる。
さっさと見栄えのいいものをコピペして作ってしまえば、
特急に乗れると勘違いする。
しかもコピペは見栄えのいいものを持ってくるから、
出来たような気になる。
本当は何もつくっていないのに、
つくった気になる。
逆に、それが「つくること」だと勘違いする。
それが不幸だ。
コピペしてショートカットされるその間には、
模写して失敗したり、それをリカバリーしたり、
失敗しながら理解を深めた時間が、
まるでカットされている。
つまり氷山の下の部分が0になる。
それがコピペだ。
こうして、
見栄えだけはいいが中身のない、
どこかで見た様な作品を「つくる」クリエイターが増え、
一から努力することは、
誰もやらない社会が到来する。
つまり、誰もつくっていないし、
誰もつくるということを理解しなくなる。
アナログ時代のほうが幸せだったのは、
少なくとも、模写できないやつは、
つくる資格がなかったことだ。
そして、学習初期の頃、
ある程度模写ができたら、
「お前うまいな」と言われたことだ。
これが、自信に繋がっていた。
人生の頃最初に褒められたやつは、
一生自信がある。
一見形の整っているコピペと、
手書きの写しをならべると、
素人が上手いと褒めるのはコピペのほうで、
手書きの子は一番大事な自信を得るチャンスがなくなる。
実はこれのほうが不幸かも知れない。
ショートカットしたほうが褒められると、
勘違いしてしまう。
かつては資料だって模写したし、
模写が上手いやつは、
一回資料を見ればあとは見なくてもコピーできた。
模写の能力そのものが、学習能力といっても、
過言ではなかった。
模写することで、学習能力をも高めたのだ。
表面に見えたものをコピーすることと模写は違う。
模写は理解である。
理解しなければ、模写できない。
デッサンでもそうだけど、
人体の構造を理解していないと絵がちゃんと描けない。
描くことで理解するのが、そもそも模写の目的なのだ。
人工知能による言語と同じだ。
表面は言葉になっているように思える。
しかしストーリーやテーマ、もっといえば、
その奥底にあるべき思考や意志がない。
模写を飛ばしてきたやつらが、
いま第一線にきているから、
もう地道に模写することなんて、
誰もやっていないし、
それを教えようとする正しい教師は、
ただめんどくさがられる。
「俺たちはライフハックをゲットしたい」
と本気で思っている可能性がある。
(僕がその最初の違和感を感じたのは、
「マトリックス」で、拳法を脳にダウンロードする場面。
ピロピロピロ、「I know Kung-Fu」とキアヌがドヤ顔して、
そんなあほなと突っ込んだものだ)
こうして、
どこかで見たようなコピペの組合せが増え、
それがつくることと誤解され、
つまらないものばかりに埋められていく。
原因はたったひとつ。コピペだ。
それが人を怠惰にし、
人をショートカットしたような気にさせ、
理解そのもの、革新そのものを遠ざけたのだ。
デジタル世代は不幸だ。
まねの深みを知らずに育ってしまった。
デジタルは人を幸せにしない。
ものづくりの本質から、人を遠ざけている。
2019年03月26日
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