2019年03月27日

突然と予兆

物語と現実の違うところ。

現実では、重要なことが、
突然、予兆なく起こる。
物語はそうではない。


現実では、
突然、交通事故に巻き込まれる。
突然、人が死ぬ。
突然、振られる。
突然、解散する。

スポーツの中継を考えるとよい。
もし、スローのプレイバックがないとしたら。

「いま起こったこと」をもう一度見れず、
起こってしまったあとの痕跡から、
起こったことを類推するしかない。

たとえばオーロラビジョンのない野球場で、
野球の試合を見ることを想像するとよい。
僕は、何度かムエタイやボクシングを生で観戦したことがあるが、
プレイバックのない会場では、
勝負は一瞬で決まるから、
今何が起こったか分からないと、まったく面白くないものだ。
だから集中して、選手の体と一体化して見ていないと、
「今こういう体勢だったから、このパンチが当たったはずだ」
などと解釈できないといけない。
格闘技は、だから玄人むきの観戦だ。
テレビ中継されるレベルになると、
解説やプレイバックが何度もあるから、
そこでようやく真実が分ったりする。

それが、現実である。

突然、予兆なく起こる。
そして、顧みるには、記憶や痕跡から類推するしかない。

現実のそのような問題点を、
物語は解消する。

「え? 今何が起こったの?」
ということがないようにする。
そうしないと、展開についていけないからだ。

たとえ一瞬で突然起こる交通事故でも、
スローモーションになったり、
車がクラクションを鳴らしているが、
本人は気づいていない描写が挟まったりして、
ドーンとぶつかるまでに、
助走が入る。

現実ではドン!あれ?というような出来事が、
物語では、あ!あぶない! まじか! ああ! ドーン!
くらいに引き伸ばされて、
「いま何が起こりつつあるのか」
「そして何が起こったのか」
がわかりやすくなるようになっている。

当然、
これが段取り的につまらないとして、
現実と同様に、ショックのあることが突然起こる、
というパターンも存在する。
そのあとのリアクションや解釈する時間のほうが長いパターンだ。

しかし、それが現実同様時間がかかってしまっては、
物語の展開の速度が落ちてしまう、という問題もある。
極端な例でいえば、
「あしたのジョー」では、
力石の死が突然すぎて、
それから立ち直るのに、10巻くらいかかった。
いや、実のところ立ち直っていない可能性すらある。
現実と同様、死の痛みを克服するまでにかかってしまい、
次の目標が見えなくなってしまった。
それゆえ、当時の他の段取り的な物語とは一線を画した、
いわばドキュメンタリ(ジョーはどう立ち直るのか)
に近い立場になってしまったが。


現実と違うように、
突然をなくし、常に予兆をつけていくと、
物語的になる。
予兆なく突然があると、
現実的になる。

物語的にすればするほど、
架空のものになり、
現実的にすればするほど、
つらく苦しいものになるだろう。

人は現実がつらく苦しいから、
物語の世界に来ていることを忘れないことだ。
しかし、途中で、
物語的に過ぎる、と醒めることもある。
その案配は、
突然と予兆でコントロール出来る、
ということを知っておくとよい。

突然すぎるな、予兆がありすぎるな、
という判断で、どっちかに寄せ直す、
というリライトでコントロール出来るよ。

そしてその予兆というのが、
みなさん大好きな、伏線というやつだ。

なぜ伏線が物語に必要なものか、
理解がひとつ深まったのではないだろうか。



現実は突然起こる。
ラブストーリーは突然に、という言葉は、
ラブストーリーは多分に物語的だが、
そのはじまりは、一目ぼれという現実によくある突然の事件からだ、
ということを言おうとしているわけだ。

物語的にするならば、
予兆を起こし、突然の速度を落として、
準備させ、そうしてから起こして、
やわらかく着地させる。

ショックをそのまま出すか、
和らげてから出すか、
という違いでもある。

和らげたら、そのあとのリアクションも速くなる。
だから結果、物語の速度は落ちないし、
なんなら加速するかもね。
posted by おおおかとしひこ at 15:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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