物語と現実の違うところ。
現実では、重要なことが、
突然、予兆なく起こる。
物語はそうではない。
現実では、
突然、交通事故に巻き込まれる。
突然、人が死ぬ。
突然、振られる。
突然、解散する。
スポーツの中継を考えるとよい。
もし、スローのプレイバックがないとしたら。
「いま起こったこと」をもう一度見れず、
起こってしまったあとの痕跡から、
起こったことを類推するしかない。
たとえばオーロラビジョンのない野球場で、
野球の試合を見ることを想像するとよい。
僕は、何度かムエタイやボクシングを生で観戦したことがあるが、
プレイバックのない会場では、
勝負は一瞬で決まるから、
今何が起こったか分からないと、まったく面白くないものだ。
だから集中して、選手の体と一体化して見ていないと、
「今こういう体勢だったから、このパンチが当たったはずだ」
などと解釈できないといけない。
格闘技は、だから玄人むきの観戦だ。
テレビ中継されるレベルになると、
解説やプレイバックが何度もあるから、
そこでようやく真実が分ったりする。
それが、現実である。
突然、予兆なく起こる。
そして、顧みるには、記憶や痕跡から類推するしかない。
現実のそのような問題点を、
物語は解消する。
「え? 今何が起こったの?」
ということがないようにする。
そうしないと、展開についていけないからだ。
たとえ一瞬で突然起こる交通事故でも、
スローモーションになったり、
車がクラクションを鳴らしているが、
本人は気づいていない描写が挟まったりして、
ドーンとぶつかるまでに、
助走が入る。
現実ではドン!あれ?というような出来事が、
物語では、あ!あぶない! まじか! ああ! ドーン!
くらいに引き伸ばされて、
「いま何が起こりつつあるのか」
「そして何が起こったのか」
がわかりやすくなるようになっている。
当然、
これが段取り的につまらないとして、
現実と同様に、ショックのあることが突然起こる、
というパターンも存在する。
そのあとのリアクションや解釈する時間のほうが長いパターンだ。
しかし、それが現実同様時間がかかってしまっては、
物語の展開の速度が落ちてしまう、という問題もある。
極端な例でいえば、
「あしたのジョー」では、
力石の死が突然すぎて、
それから立ち直るのに、10巻くらいかかった。
いや、実のところ立ち直っていない可能性すらある。
現実と同様、死の痛みを克服するまでにかかってしまい、
次の目標が見えなくなってしまった。
それゆえ、当時の他の段取り的な物語とは一線を画した、
いわばドキュメンタリ(ジョーはどう立ち直るのか)
に近い立場になってしまったが。
現実と違うように、
突然をなくし、常に予兆をつけていくと、
物語的になる。
予兆なく突然があると、
現実的になる。
物語的にすればするほど、
架空のものになり、
現実的にすればするほど、
つらく苦しいものになるだろう。
人は現実がつらく苦しいから、
物語の世界に来ていることを忘れないことだ。
しかし、途中で、
物語的に過ぎる、と醒めることもある。
その案配は、
突然と予兆でコントロール出来る、
ということを知っておくとよい。
突然すぎるな、予兆がありすぎるな、
という判断で、どっちかに寄せ直す、
というリライトでコントロール出来るよ。
そしてその予兆というのが、
みなさん大好きな、伏線というやつだ。
なぜ伏線が物語に必要なものか、
理解がひとつ深まったのではないだろうか。
現実は突然起こる。
ラブストーリーは突然に、という言葉は、
ラブストーリーは多分に物語的だが、
そのはじまりは、一目ぼれという現実によくある突然の事件からだ、
ということを言おうとしているわけだ。
物語的にするならば、
予兆を起こし、突然の速度を落として、
準備させ、そうしてから起こして、
やわらかく着地させる。
ショックをそのまま出すか、
和らげてから出すか、
という違いでもある。
和らげたら、そのあとのリアクションも速くなる。
だから結果、物語の速度は落ちないし、
なんなら加速するかもね。
2019年03月27日
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