2019年04月10日

演じることは表情をつくる事ではない

演技論を考えることは、ストーリーとは何かを考えることだ。
よくあるのは、「この表情がすごい」とかで、演技をほめること。
それは演技を多分わかっていない人の評である。


ほとんどの素人にとって、
「表情をつくる」ことが嘘をつくことなのだろう。

楽しくないときに楽しい顔をして笑顔をつくらないといけないとか、
ウソ泣きをするとか、
仲がいいふりをするのを、顔や仕草でそう見せるとか、
写真を撮る時に盛るとか。
(こっちの角度のほうがよく見える、とか言っている段階で、
「演技」が入っているわけだ)

「真実ではなく、みかけのものをつくること」が、
演技だと思っている節がある。
それは、そのようにして普段嘘をついている、ということなのだろう。



仮に、あなたがスパイになると想定する。
アメリカに潜入することになったとしよう。
どうする?

まずはアメリカで生活する時に不自然にならないような所作を身につけるはずだ。
電車やバスにどう乗るのか、
どういうところでどういう買物をするのか、
医者や政治への考え方、
ふつう電話はどう話すのか、
などなど、
ふとしたときに疑惑をもたれないように、
徹底的に「ふつうのやりかた」をマスターするはずだ。

当然、
アメリカでかつて流行ったものを経験としてもっていたり、
いま流行っていることに対して、
自分なりの意見を持っているべきで、
それが突出して異常であるわけにはいかないだろう。
だから、「不自然でなくそう生きている」
という風に「化ける」はずである。

演技の第一の基本は、まずこれである。
「その人として不自然じゃないようにする」
というふるまいが咄嗟に(ヨーイスタートがかかってからでよいが)出来るか、
ということである。

だから、アドリブができて当たり前なのだ。
その人がそうしているなら、それはそうするからだ。

理髪師の役をやっていて、
他人のヘアメイクが気にならないわけがない。
恋人の髪が乱れたら、
アドリブでそっと直してあげるはずだ。
格闘家の役をやっていて、
他人の鍛え方が気にならない訳がない。
どうしたらこの二の腕のようになるんだ?
っていつか聞きたくなるのを我慢しながらストーリーを進めるのが、
その人の生き方のはずだ。

そのようなアドリブがとっさに出来るかどうかが、
「その役になっている」ということだ。

「その役になっているかどうかは、
立ち方でわかる」なんていう人がいるが、
あれは嘘だ。
「その役になっていないことが、
立ち姿でばれてしまう」という方が正解だろう。

武道家の役ですり足で立っていないなんてありえないし、
バイク乗りの役でハンドルの持ち方がおかしいなんてありえない。
それだけのことだ。

だから、まず姿勢、所作の観察、コピーから入るのが、
演技の初手である。
海外の俳優はまずこれからやる。
ハリウッド俳優で「〇か月の役作り」なんてよくいうけど、
それはまずこれの観察、コピーから入るわけだ。

日本の俳優でこれをやる人はほとんどいない。
演技技術ではなく、タレント性で売れるからである。
ひらたくいうと、「人気かどうか」でしか呼ばれないということだ。
技術ではなく、人でしかよばれない。
(だから飽きられたら交代させられる)
また、
映像関係は当日収録だけしてさっさと次の仕事をやれば、
どんどん仕事を入れて稼げる、
という(理解の薄い)事務所の意向もある。
今日はテレビ、明日は映画、二日撮ったらドラマ、
撮休が入ったらバラエティー、
なんてスケジュールで動いている人気者俳優もたくさんいるだろう。
そんなスケジュールで、
ひとつの役に向き合える時間がなくなっている。
それは日本の役者がかわいそうだなあとはおもう。

舞台は比較的昔ながらの伝統が残っていて、
一か月は稽古期間がある。
役者はそれでようやく「役として生きる」
ということが出来るようになる。

しかし、舞台をいつも見ている人は少ないから、
演技の質を理解しない。
ということで、
「この表情がいい」という、
見た目くらいしかわからない、という悪循環はある。

ところで、
じゃあ、それ以上の演技があるのだろうか。

その役としての所作や行動原理をマスターすること以外に必要なものとは。

それは、ストーリーをどう書いているか、
考えればわかることだ。

そのキャラクターの過去や経験から来る考え方の歪みや、
そのキャラクターがついている嘘や隠し事や、
そのキャラクターがなぜそれに執着するかの理由や、
そのキャラクターの動機の激しさなどについて、
きちんとつくっている筈だ。

それを理解して、そのように見せることが、
「演じる」ということである。

つまり役者は、
脚本家が、どのようにその人物を作っているのか、
理解しなければ演じることができない。

当たり前だが、それが書いていない駄目脚本もたくさんあるから、
それを作ることもある。
アドリブが上手い役者は、脚本家の才能を一部持っているわけだ。

だからよくできた映画は、
「その人がそこにいて、そう思って、そう行動している」
ように見える。
「その芸能人がいて、何を考えているかよくわからなくて、
台本の都合上でそうしている」
というふうに見えるのは、
全部学芸会だ。


そしてその行動の結果、
次の焦点に話が移った時、
本気でそのことについて、観客がそう思うようになると、
話はどんどんうまく転がっていく。

つまり、役者という個人は消えて、
ただただストーリーに夢中になれるようになる。

それが上手い演技というものだ。
ストーリーは上手い演技と同じことで、
上手い演技とはストーリーのことだ。


上手い演技は、編集する必要がないので、
撮影がとても楽である。
編集が凝ったものは、たいてい演技もストーリーもひどいものになる。


さて。
「表情がいい」だって?
何を見たらそうなるんだ?
それってただその人が好きになっているだけじゃないか?
(もちろん、芸能というのは、色恋営業と切り離せない職業だ)

映画が好きなんじゃなくて、
その人か好きなだけだろ?

そもそも、
好きな人を集めてストーリーを見せるのが興行だったはずだが、
好きな人を集める「だけ」の興行に、レベルが下がっているよね。
かくし芸大会でもやればいいんじゃない?



じゃあ、かくし芸大会にならない、
ほんとうのストーリーとはなんだろうか。

僕は、
足りない部分を足りるようにする内面の成長と、
外面的な問題の解決の瞬間をカタルシスで描くことによって、
世の中に大きな影響を与えるものだと考える。
それぞれの個別的な意味は、過去記事を参考にされたい。

演技とはストーリーで、ストーリーは演技だ。
「表情がいい」なんて評をされたのなら、
あなたの映画は顔芸集でしかないということだ。
posted by おおおかとしひこ at 17:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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