主観的な速さと、客観的な速さ。
その配列は爆速だ、
と考えるとき、
二種類の速さがあると思うわけだ。
客観的な速は、数値で測定できる。
タイプウェルのタイムを競ったり、
この配列は速い、と断言するのは、
主観によらない、誰にでも確認できる指標を使い、
これの速さは○○である、
と数字にする。
数字にすることで比較が可能になり、
定量的定性的議論の俎上に載せられる。
○打/秒、○字/分、○字/10分、
○字/日
などは、その配列の速さを客観数字で示したものだ。
何故か新下駄配列は客観的速さを言う人が多く、
何故か親指シフトと飛鳥配列は、
客観的な速さを言う人が少ない。
もちろん、
主観的には爆速だけど、
同じ文字を打つのに何時間もかかっているとしたら、
「それはお前の主観やないかい」と突っ込むことが出来るが、
ある程度(タイプウェルSJ以上、10分700字以上)になれば、
客観的な速さに意味はなく、
主観的な速さに意味があると、
僕は考えている。
主観的な速さとは、
「思う言葉がすっと打てること」
のように定義できると思う。
親指シフトや飛鳥の人にこの傾向が強い。
「楽に打てる」とか「言葉と指の一致」
などと表現される速さだ。
客観的な速度が仮に遅かったとしても、
主観的に「言葉の出てくる速度」が速いのならば、
それは速いと言ってもいいと思うんだよね。
たとえば薙刀式では、
濁拗音、半濁拗音、濁外来音は、
3キー同時押しだ。
これは客観速度だとたいして速くないと思う。
「同時押しは超高速領域では足かせになる」
というタイピング上級者の意見もある。
しかし主観的には爆速だ。
「じょ」や「ディ」などが、
構成要素3つの同時押し(し+濁音+よ、て+濁音+い)
で打てるのは何も考えずにできる。
「何も考えずに」のレベルが、
訓練の果ての無意識ほど練習することがなく、
手の流れ程度で可能なのが、
薙刀式の良いところだと考えている。
僕は、
qwertyローマ字の客観速度は遅い。
タイプウェルB程度だ。
ビジネスレベルでは最低限レベルだろうし、
主観的な速度も凄く遅くてイライラする。
ローマ字配列カタナ式に変えると、
主観的速度も客観的速度も倍になる。
合理的な運指のせいだ。
ところが、
ローマ字そのものは、
たとえ客観速度が速くなろうとも、
主観速度が遅い。
打鍵数のせいだ。
僕はほんとうは、
「一概念ワンアクション」がもっとも主観的に速い配列だと思いながら、
今日も1モーラ1アクションの薙刀式を打っている。
行段系でありながら、
フリックは実は「1清音1アクション」に成功している配列だ。
ローマ字より使いやすいかも、
と時々思ってしまう。
フリックは客観速度はたいしたことないが、
主観速度はなかなか速いと思う。
もちろん、
文字単位で配列を考えてもしょうがなくて、
「使いやすい言葉が打ちやすい運指で出てくる」
ことが、配列の主観的速度に関係してくると思う。
主観的打ちやすさと客観的打ちやすさが異なるところが、
配列の個人的相性と関係があるかもしれない。
薙刀式は、主観的速度が速い配列だと僕は思う。
飛鳥配列よりも、僕にとっては速い。
親指シフトよりも飛鳥の方が僕は速いと考える。
自分の言葉が打ちやすい、
思考の流れが手で中断されない、
というところが大きい気がする。
自分の手で作った配列だから主観的に速いのか、
それとも他のある種の人にも、
その主観的速さは理解できるのか。
そのへんのところはよくわからないが、
薙刀式の客観的合理性については、
一定の評価が広まりつつあるような気がする。
新下駄配列は、客観的に速いのは事実だが、
主観的な話をあまり聞かないので、
そこのところを知りたいんだよなあ。
「しょう」「しゅう」の気持ちよさとか、
もっとみんな語ってもいいのに。
小説を書いたりブログを書くのに新下駄を使う人は、
いないことはないだろうけれど、
新下駄愛が漏れ聞こえることがそんなにないのはなんでやろ。
親指シフト愛がダダ漏れになっていることと対照的だなあと、
思う次第。
ユーザー数の圧倒的な差はあるにせよ、だ。
ま、配列への言葉って、
文句の方が圧倒的に多いのかもしれないけどね。
それが静かになった時点でエンドゲーム(涅槃)なのかもしれない。
ある配列を常用するのは、
合理的(客観的速度)ゆえか。
愛着(主観的速度)ゆえか。
配列は、刀やペンやバイクと同様のものだと考える。
配列の速さについて考えることは、
自分は文章を使って何をしたいのか、
と最終的に考えることかもしれない。
(ただただツーリングが楽しいバイク好きのように、
ただただタイピングやってる人もたくさんいて良いと思う。
僕はそうじゃない)
2019年04月13日
この記事へのコメント
コメントを書く