ずっとこのことを整理しようと考えていた。
男性脚本家の駄目な特徴も抽出しないと、
議論にならないと考えていて、
それらを対照的に扱えないと意味がないと考えていた。
(そうじゃないとフェアじゃない)
言葉にしてみよう。
基本的な男女差。
1 男性は地図を読めるが女性は苦手。
2 男性はディテールの差異に無頓着であるが、女性は敏感。
(視細胞の色感度の差が有意に違う)
3 男性は時間軸でとらえる。女性は前のは忘れる傾向にある。
4 男性のほうが肉体的闘いの周辺に詳しい。
女性のほうが人間関係的闘いの周辺に詳しい。
これらの違いが一般的にある。
もちろん個人差があり、
男だからこうでありこうでないなどということはなく、
ただ層として統計を取ると、
どうしても男女差はでてくる、という程度に過ぎない。
物語を書くことは、
「世界はこうなっている」という定義をすることである。
つまり、世界がこうなっていることに、
統計的に見ると男女で差が生じてくる。
それが素敵に見せているようになっていればとくに問題がないが、
欠点があるつまらない脚本のとき、
男女差で、特徴的な欠点がでてくることがある。
1の観点では、
男性脚本家は、構造や論理や理屈ばかり優先して、
演説的なつまらなさになることがある。
女性脚本家は、背骨の論理が通っていない、
ただのから騒ぎを書くことになる。
2の観点では、
男性脚本家は、ディテールがなく理屈だけの抽象的な結論になってしまう。
女性脚本家は、ディテールは出来ているが、
全体的に歪んだもの(これがなんのためにあったんだっけ)になってしまう。
3の観点では、
男性脚本家は、時間的に矛盾がある場合がある。
女性脚本家は、前の事が関係ない点の感情だけになり、
ストーリーが関係なくなってしまう。
4の観点では、
男性脚本家は、バトルだけやって満足したり、
逆に人間関係はどうでもよかったり、
女性脚本家は、肉体的闘いにリアリティがなく、
逆にどろどろの救いのない話を書いてしまう傾向がある。
男性脚本家に見られる欠点は、
女性脚本家に見られない傾向があり、
その逆もしかり。
くり返すが、これは統計的に見れば、の話で、
個人では色々な塩梅があるだろう。
さて。
ようやく本題にうつる。
「映画刀剣乱舞」の脚本的欠点について言及する。
とてもつまらない脚本で、何も得るものがなかった。
とくにおかしいと思った部分について列挙する。
・空間的位置関係が把握できない
本丸はどこにあるのか? 時間的空間的特定ができない。
特定せよ、というわけでもないが、
「ここがどこかわからない」という不安のまま、
ずっと見ていないといけない。
同様に、時間遡行軍がどこからやってくるのかわからない。
これはどこの話なのか?
極端な話、地球でなくても、パラレルワールドでもいいと思う。
それが、テーマ「地球、日本の、歴史を守る」ことと関係するはずだ。
また、時間遡行軍の組織や社会がよくわからなかった。
たとえばシューティングゲーム「R-Type」では、
敵バイドは、「進化した未来の人類」というどんでん返しがある。
そういう名作に対して、
それなりに納得が行きたかったが、
「ただ怖い敵」じゃあ、子供だましもいい所だ。
時間遡行してタイムパラドックスを起こす、
ターミネーターシリーズの面白さに対して、
歴史改変の危機感がまったく面白く無い。
「歴史を改変したらどうなるのか?
どうしたら止められるのか?
なぜ止めるのか? なぜ改変しようとするのか?
改変はどうやったら止められて、改変の利点は何か、
誰がどういう得をするのか」
という大枠の構造、理屈がない。
ただ点で感情を前後させているだけだった。
・闘いの描写のつまらなさ
アクション監督や殺陣が頑張っているのはよくわかった。
しかしアクション監督が担当できるのは、
アクションスタートからカットまでであり、
全体の闘いの目的やディテールは脚本家の仕事である。
たとえば、
刀剣男子は切られたら死ぬのかすらよくわからない。
疲れるのかもわからない。
たとえば漫画「亜人」では、
不死で復活したときのほうが肉体が全部復活するから、
「撃たれたら自殺して、フルの肉体で復活する」
という興味深いシーンがある。
あのピンクの薬(エリクサーと仮に呼ぶ)が隠しであるのなら、
腕一本犠牲にして投げつけるとか、
ちぎれた頭部で殴るとか、
そのような戦術があってしかるべきではないか。
つまり、
「ここからここまで戦闘」「ここからここまでストーリー」
に二分してしまっていて、
「戦う人のストーリー」に全くなっていなかった。
戦闘とストーリーが分離しすぎている。
刀は闘うためにある。
だが本分の闘いへのスタンスが、まったくわからない。
・敵のわからなさ
女性脚本家のほうが、身近なものを書くのが上手である。
逆に言うと、身近以外のものは、
存在していないように書いてしまう欠点がある。
この話でいちばんわからなかったのは、
敵、時間遡行軍の目的である。
改変したいのは分った。なんのために?
それが納得がいかない。
それは、「相手も都合もあれば目的もある人間である」
という視点が欠けていたように思われる。
ただ気持ち悪い「敵」という記号になってしまっていたのが、
身近以外に興味がない、身内以外を疎外してしまいがちな、
女性特有の無意識が気持ち悪かった。
ただでさえ、
戦争は悪でなく、正義と正義のぶつかり合いに過ぎない、
という多視点型の戦争観が出来ている。
「敵はテロリズムだ」と中東にアメリカは侵攻しているが、
それはわざと悪をつくるための大義名分であるはずで、
中東には中東の正義があるはずである。
それを、
「敵は敵」「悪は悪」みたいに思考停止しているところが、
良くなかったと思う。
彼らには彼らなりの事情があるようにしないと、
ただの排除対象でしかなく、
メインプロット、歴史改変をめぐる戦いが、
単なるイベントでしかなくなる。
イベントはストーリーではない。
つまり、時間遡行軍は人間ではなく、
単なる台風とか嵐である。
ストーリーとは、人間対人間の話であるべきだ。
敵にも事情があり、こちら側にも事情がある。
それをこのようにして解決する、
その解決の仕方が、止揚というストーリーの基本だ。
ただ勝ってよろこぶのはストーリーではない。
女性特有の、身内びいきかつ身外無視が、
このシナリオの根底にある気がした。
(もちろん男性脚本家でもそういう人もいる)
・何のために歴史を守るのかわからない
べつに歴史が変って、何がだめなのか。
それに反論できていない。
審神者や本丸にいる人々が、
単純に未来の人であれば、目的はサバイバルということになるが、
未来などととくに設定されていないため、
異次元の地球の日本の戦国のある部分を守ることに、
なんの意義があるのかわからない。
時間遡行軍の目的不明とあいまって、
「彼らはなんのために命を懸けているのか」
がまったく伝わってこない。
花を守るシーンがあるが、それがどう自分たちに関係するのかわからない。
名作「バックトゥザフューチャー」では、
タイムパラドックスを起こしてしまった主人公が、
「歴史から消えかかる」というシーンがある。
だから必死に闘うのだが、
なぜ彼らが必死になっているのかわからないままだと、
滑っているとしかいいようがない。
闘うから闘うんだ、という自己言及になってしまう。
それはループの外の人(刀剣乱舞を知らない人)に対し、説得力が低い。
なぜ刀剣男子は審神者への忠誠があるのか、
審神者は誰なのか、
まったくわからないから、感情移入のしようがない。
それがわからなくて進めるのは、
構造や理屈が得意でない、女性脚本家特有の弱点がもろに出た感じがした。
あと、これは性癖とも関係があると思うが、
男は攻撃によって破壊し、破壊するより前よりももっと良くなることに快感を覚え、
女は守ることに快感を覚え、元通りに戻ると安堵する、
という傾向にあると思う。
それが欠点になると、
男性脚本家の話は、「破壊の限りを尽くし、それで落ちなくておしまい」になるし、
女性脚本家の話は、「もとに戻ったが、そこにカタルシスがない」になる。
この脚本は後者に嵌った感じがする。
撤退戦、防衛戦は、その意義が明確でないと、
ただの消耗に見えてしまう。
(信長が死んだ世界線に戻ったが、
刀剣男子が介入することで、さらに世界が良くなった、となるのが理想だ。
それが現状維持でしかないので、
このストーリーに何か意味があるのだろうか、
と醒めてしまう)
別に、女だから戦国ものが書けないとか、
女だからタイムパラドックスが書けないとか、
偏見をいうつもりはない。
しかし、
僕がつまらない部分がある、と感じたものが、
女性脚本家特有の弱点に見事にはまってしまっているところが、
つまらない部分であった。
「だから女は」というつもりはない。
ただ、小林靖子の脚本には、
その嫌な部分がつまっているだけのこと。
ただ小林靖子が駄目だっただけだ。
男がやればよい、という単純な解決になるとは思えない。
男の嫌な部分がもろに出たものでは、
駄作、実写版「進撃の巨人」がある。
男的な見栄だけで話が進んでいたり、
なぜか最強の女に好かれ最強の覚醒をするという、
メアリースー的幼児的な全能感丸出しのストーリーだ。
その、女版でしかなかったのがもったいない。
せっかくいいキャストを使っていながら、
美しさや様式美しか楽しみがなく、
ストーリーは退屈、というただの学芸会になってしまった。
これは最近の邦画のもっともまずい傾向だと僕は憂慮していて、
だから必要以上に怒っているのかもだが。
もっと人間関係にフォーカスを当てて、
もっと気持ちを深く描ければ、
女性脚本家特有の美点が発揮できたかもしれないが、
そういう枠組みをまず用意していない時点で、
敗北が見えていたのだろう。
そもそもこれはタカラヅカ的な、
特別な出し物である、
そう最初に構えれば映画だと思わずに見れたかもしれない。
しかし、僕はこれを映画として批判している。
しかも、脚本の構造上の問題だけでそれを批判している。
セリフがまずいとか、場面のディテールとか、
そこに言及していない。
まあ、映画じゃなかったんだろうね。今はそう思う。
しかし、それと、女性脚本家特有の弱点が映画に出ていいかどうかは、
別の話だ。
ここは映画の脚本を論じ、
脚本をうまく書くために議論する、
脚本論の場である。
欠点があれば直せばいい。
どう直すべきかについてはだいたい書いた。
あとは、三日月という僕の知らないキャラクターに、
もっと感情移入したかった、ってところか。
とりあえずここまでは言葉になった。
もっと深く論じるには、僕はボキャブラリーが足りなすぎる。
2019年04月14日
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