2019年04月15日

説明とは慣れさせることだ

なぜあなたの説明は下手なのか?

「AはBである」と説明しさえすれば、
わかってくれると勘違いしているからだ。


人の理解とはどういうことだろうか。

Xを理解したとは、
Xの説明書きを理解したことではない。

それを説明なしに、「自分で自在にできる」
ということまでがはじめて理解である。

「二次方程式を理解した」とは、
二次方程式の定義を暗記することではなく、
どんな二次方程式でも因数分解できたり
(虚数まで範囲を広げれば必ずできる)、
微分したり積分したり、
現実の物理との対応(弾道計算や軌道計算)まで理解することまで、
含むと思う。

「空手を理解した」とは、
同様に、
「裸拳や裸足を使った打撃系武術」
という説明ではなく、
空手がどのように戦うのか、
負けそうな時どうするのか、
苦手な武術はなにかとか、
そのようなことまでわかってはじめて理解だ。
(もちろん、体の中に入って使えるまで含んでも良い)


辞書に言葉が定義された時、
例文があるのは、
その言葉を使えるようにするためだ。
こういう時に使うのか、と複数の例があれば、
人は察することができる。
「こう使えるのなら、こう使えるのではないか」
と判断できるようになる。

Xを示した時、notXを示すのも、理解を促進させる。
「18歳未満には、18歳は入らない」などだ。
「17歳以下のことだね」とさらに追加を加える場合もある。


さて。

物語における説明とは、
空手マスターにするようなことまではやらない。
大体このようなものである、
というビジュアルと、基本設定が分かれば良い。
「基本設定がわかる」というのは、
つまりそれを頭の中にイメージして自由に動かせる、
ということだ。
「裸拳や裸足で打つことがおおむね空手」
「棒術は空手ではない」
「投げや関節も空手ではない」
「拳銃を使うのも空手ではない」
「空手着を着てなくても、空手の突き方なら空手だ」
くらいは、分かるようにしてあげれば、
空手の基本概念の説明ができたことになるわけだ。


あなたは、
空手を説明しようとして、
「裸拳や裸足による打撃」と、
一回しか説明してやしないか?
「ここに書いてあるのに、なぜ理解しないのか?」
と疑問に思っていないか?

あなたは説明したかもしれないが、
それは説明になっていないのだ。

説明になっていないというと、
「裸拳や裸足による打撃、沖縄で発達したものを本土に上陸させ、
洗練されたもの」などと、
情報を足してやしないか?

違うのだ。
説明した部分を、
頭の中で自由に動かせるように、
例文や逆の概念を与えてやればいいのだ。


「18歳未満立ち入り禁止」
「わたし18」
「じゃギリセーフだな。17だったらアウトだ」
「もう大人ですうー」
「そうかな?子供と変わんねえだろ」
「失礼な」
みたいに、フォローを加えれば良い。
頭の中で、17と18の間に境界線が引かれるであろう。


このようにして、
説明というのは、
言葉の定義を並べるだけでは足りない。
「それが現実にどう適用されるのか?」
の様を描いて、類推が進むように書くとよい。


逆の例を。
保険の契約書は、言葉の定義しか書いていない。
ぼくは、なんの説明にもなっていないと思うよ。
それをひとつひとつ噛み砕いてない限り、
説明としては不十分だと考えるね。
つまりぼくは保険屋は下手だと考えている。


Xの定義をいくら説明しても説明にはならない。
説明とは、そのXに慣れさせることだ。
そう思うと、フォローを考えやすいだろう。
posted by おおおかとしひこ at 23:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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