2019年04月16日

意味と意義

ストーリーには意味がある。
それは遠く離れた距離から見ると、意義と考えてもよい。


そのストーリーが存在することで、
世界にどういう役割を果たしているのか。
それが意義だ。

道徳的な教訓がある、という教科書的なことから、
世界観を変えるものである(〇〇から〇〇へ)、とか、
これが存在することで救われた気分になる、とか、
くじけそうなとき励みになった、とか、
この美しさが自分の基準である、とか、
そういうことだ。

あってもなくても変わらないとか、
ただの金儲けで、存在するだけで世界を悪くしている、
とかは、駄作という。

世界の沢山の人にとって、意義があるものがよいだろうか。

それは、いま、そうなだけかもしれない。
少し状況が変れば、意義を失うものもあるかもしれない。

だから、「いま、妥当な範囲で意義があり、
多少時代が変っても、意義がありそう」
というものを作るといいだろう。
いま時代と寝ても、次の瞬間はわからない。
時代を超えるものが理想だが、
それが今の時代とシンクロしていなければ、
意義を見出すことは難しい。


ストーリーが意味を持つのは、
前提となる欠点や問題があって、
それがストーリーが終わることで解決するからである。

ストーリーで使われた解決方法が、
その欠点を除去するものであれば、
AではなくBが素晴らしいのだ、
という意味になるだろう。
さらに、言外の意味が加わって、
テーゼの形になるだろう。
(〇〇は〇〇である、のような宣言文の形で書けるもの)
それがテーマになるだろうことは、さんざん議論してきた。

で、そのテーマが意味だとすると、
「その意味を言っているストーリーが存在する意味」
が意義である、ということだ。

なぜそれを今ここで言うのか、
それにどんな意味があるのか、
ということだ。

それを言語で示すことはなかなか困難であるが、
感覚としてわかっていることは大事なことだ。
「いま、このような意味のストーリーが必要とされている」
ということは、時代の先端にいないと感覚的にわからないからだ。


人類の進歩を支えるのは科学や社会制度であるが、
文化もそうである。
物語は文化である。
風俗や習俗が収められる、
というだけでなく、
考え方を収めることが出来る。
つまり、文化とは、新しい考え方のことである。

ケータイが出る以前と、現在では、
それを使用した文化が異なってしまった。
科学(と制度)が文化を変えた例だ。

逆に、文化が社会を変えることがあるだろうか。
流行という形で、最初に変えるだろう。
次に、それが流行ったあとは、
それがなかったときとは違う考え方で考えるようになる。

僕はJR東海の新幹線のクリスマスエクスプレスが大好きでCM業界に入ったのだが、
「クリスマスは会いたい人と会う日」という文化は、
これでも作られたように感じる。
(もっとも、当時はクリスマスは恋人とセックスする日、
というバブル真っただ中であったが)
そしてそれが今だに、
日本人の生き方や、新幹線の在り方に影響を与えている時点で、
それはひとつの文化を形成したといえよう。

映画や小説やドラマのような物語は、
そうあるべきだと思っている。

それまでになかった考え方を広め、
それが行動規範(または考え方の基準)になるようなものがよいと思う。
道徳的な意義がよいと一般に言われるのは、
それは直接的に社会に得があるからだ。

もちろん、直接的な得でなくてもよい。
新しい気分でもよい。

ストーリーの意味という近視眼的な部分から離れて、
そのような巨視的な、
それが存在する意義、みたいなものを、
俯瞰で考察しておくのもよいだろう。

しかし、それが意義があっても、
つまらないものは意味がない。
面白さ、新しさ、ストーリーの意味、そしてそれがまるごと存在する意義、
それらがすべてつながっているものが、
名作というものであろう。


もちろん、それを目指すべきだ。

それには、とても小さい文字から書く必要がある。
一文字一文字書いていくしかないのだ。
ちょっと書けばすぐにその理想から外れる危険がある、
とても難しい冒険を、
最後まで針の糸を通さなければ、
意義や意味が存在さえしなくなる。
なんと難しいことか。
しかしそれが、ストーリーを書くということである。
posted by おおおかとしひこ at 19:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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