ストーリーには意味がある。
それは遠く離れた距離から見ると、意義と考えてもよい。
そのストーリーが存在することで、
世界にどういう役割を果たしているのか。
それが意義だ。
道徳的な教訓がある、という教科書的なことから、
世界観を変えるものである(〇〇から〇〇へ)、とか、
これが存在することで救われた気分になる、とか、
くじけそうなとき励みになった、とか、
この美しさが自分の基準である、とか、
そういうことだ。
あってもなくても変わらないとか、
ただの金儲けで、存在するだけで世界を悪くしている、
とかは、駄作という。
世界の沢山の人にとって、意義があるものがよいだろうか。
それは、いま、そうなだけかもしれない。
少し状況が変れば、意義を失うものもあるかもしれない。
だから、「いま、妥当な範囲で意義があり、
多少時代が変っても、意義がありそう」
というものを作るといいだろう。
いま時代と寝ても、次の瞬間はわからない。
時代を超えるものが理想だが、
それが今の時代とシンクロしていなければ、
意義を見出すことは難しい。
ストーリーが意味を持つのは、
前提となる欠点や問題があって、
それがストーリーが終わることで解決するからである。
ストーリーで使われた解決方法が、
その欠点を除去するものであれば、
AではなくBが素晴らしいのだ、
という意味になるだろう。
さらに、言外の意味が加わって、
テーゼの形になるだろう。
(〇〇は〇〇である、のような宣言文の形で書けるもの)
それがテーマになるだろうことは、さんざん議論してきた。
で、そのテーマが意味だとすると、
「その意味を言っているストーリーが存在する意味」
が意義である、ということだ。
なぜそれを今ここで言うのか、
それにどんな意味があるのか、
ということだ。
それを言語で示すことはなかなか困難であるが、
感覚としてわかっていることは大事なことだ。
「いま、このような意味のストーリーが必要とされている」
ということは、時代の先端にいないと感覚的にわからないからだ。
人類の進歩を支えるのは科学や社会制度であるが、
文化もそうである。
物語は文化である。
風俗や習俗が収められる、
というだけでなく、
考え方を収めることが出来る。
つまり、文化とは、新しい考え方のことである。
ケータイが出る以前と、現在では、
それを使用した文化が異なってしまった。
科学(と制度)が文化を変えた例だ。
逆に、文化が社会を変えることがあるだろうか。
流行という形で、最初に変えるだろう。
次に、それが流行ったあとは、
それがなかったときとは違う考え方で考えるようになる。
僕はJR東海の新幹線のクリスマスエクスプレスが大好きでCM業界に入ったのだが、
「クリスマスは会いたい人と会う日」という文化は、
これでも作られたように感じる。
(もっとも、当時はクリスマスは恋人とセックスする日、
というバブル真っただ中であったが)
そしてそれが今だに、
日本人の生き方や、新幹線の在り方に影響を与えている時点で、
それはひとつの文化を形成したといえよう。
映画や小説やドラマのような物語は、
そうあるべきだと思っている。
それまでになかった考え方を広め、
それが行動規範(または考え方の基準)になるようなものがよいと思う。
道徳的な意義がよいと一般に言われるのは、
それは直接的に社会に得があるからだ。
もちろん、直接的な得でなくてもよい。
新しい気分でもよい。
ストーリーの意味という近視眼的な部分から離れて、
そのような巨視的な、
それが存在する意義、みたいなものを、
俯瞰で考察しておくのもよいだろう。
しかし、それが意義があっても、
つまらないものは意味がない。
面白さ、新しさ、ストーリーの意味、そしてそれがまるごと存在する意義、
それらがすべてつながっているものが、
名作というものであろう。
もちろん、それを目指すべきだ。
それには、とても小さい文字から書く必要がある。
一文字一文字書いていくしかないのだ。
ちょっと書けばすぐにその理想から外れる危険がある、
とても難しい冒険を、
最後まで針の糸を通さなければ、
意義や意味が存在さえしなくなる。
なんと難しいことか。
しかしそれが、ストーリーを書くということである。
2019年04月16日
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