物語とは何か。
僕は色々な角度から考えてきた。
俯瞰したり、文字の中に入ったり、
深さも広さも色々考えてきた。
最近思うのは、人は物語によってしか理解することが出来ない、
逆に、理解とは物語形式そのものである、
なんて思うようになってきた。
たとえば東日本大震災のとき、
様々な「物語」が生まれたと思う。
夜海に何千人もが歩くのを見たとか、
タクシーに客が乗った筈なのに、着いたらいなくて、そこは津波で流された家の跡だったとかの、
怪談話。
地震兵器というデマ。
ぽぽぽぽーんCMの狂気を、パロディすること。
枝野がどんどん痩せていくこと。
原子力村という闇。
テレビが信用できなくなって、真実は隠されている(スポンサーに配慮して)ということ。
それを伝えようとしたジャーナリストが殺されたという噂。
これらは、
東日本大震災、つまり、
予想できない大地震が起こり、
予想できない人が一気に死に、
原子力発電の危険性とその裏側を知り、
テレビにまみれていた日常が一変した、
という一連のことを、
「物語として理解する」
という現象だったのではないか、
と僕は最近考えている。
つまり、
事実を事実として受け止めるには、
あまりにも難しい(現実を越えている、感情が震える)から、
それを物語形式に変換することで、
「慣れる」のではないか、
ということ。
ぽぽぽぽーんは狂気のレベルでテレビから流れた。
だからそれは原子力がぽぽぽぽーんだとか、
そういうパロディが沢山でた。
それは、「現在の異常を物語形式で理解する」
ということだったのではないか。
地震兵器だって、予想もしなかった突発的大地震に対して、
「某国の陰謀だったのかも知れない」
などと解釈することで、ちょっとでも物語の俎上に載せることで、
安心したかったのではないか。
怪談が出そろったこともそうだ。
人は死に対してまだ理解していない。
理解していないことに恐怖する。
「いきなり一杯死ぬ」ということにショックが大きすぎるから、
「彼らはまだ幽霊界で生きているのだ」
という物語で、沢山の死を理解しようとするのではないか。
人はなぜ生きるのか?
人はなぜ死ぬのか?
人は何のために生きるのか?
哲学の答えは出ていない。
しかし、その意味に答えてきたのはなんだ?
哲学でもなく、科学者でもなく、物語という文学ではないだろうか?
宗教? 優れた宗教は物語を利用する。
神話や教祖の物語によってである。
それは事実よりも多分に物語性を増している。
通常ではありえない超常的なことがおこったり、
人物が戯画化して分り易くなっていたり、
悪役がいてコンフリクトがあったり、
動機や目的が明確にして、ゴールが分り易くなっていたり、
絵になる場面があって記憶に残りやすくなっていたり
(その用語イコンは、もとは宗教画の用語だ)、
それ全体でどういう意味があるのか、
答えられるようになっている。
つまり、宗教は物語だ。
(逆に、物語のない宗教はない、と断言してみる)
そして、優れた科学も物語を持つ。
よくわからないブラックホールや量子力学を利用したフィクション物語がなぜあるのか。
それを物語として利用し、理解に利用しているのだ。
僕は、よくわからないことを、
物語として理解することで、安心しようとしているのではないか、
という説を提唱してみることにする。
怪談や妖怪話はほとんどがそうではないかと思っている。
水辺に近づくな、河童が出るぞ、
という物語は、
水辺の恐ろしさを教える教訓話であるが、
それは「水辺を理解する」というやり方でもある。
「河童が出るから長居すべきではない」
という水辺の理解、ということである。
ほとんどの人にとって有効だったのだろう。
(もちろん水辺専門の漁師や渡し人にとっては、
河童の物語は機能しなかっただろう)
神話になぜ「世界がどうやってできたのか」
というパターンが多いか、
という答えがこれである。
世界がどうやってできたのか、
まだ答えは出ていない。
宇宙が光速以上で膨張している理由や、
ビッグバンのことや、
ダークマターのことはほとんどわかっていない。
当時も今も、だから不安になる。
それを、「世界はこうやってできたのだ」
という物語を知ることで、不安が消える。
それをそのまま信じることでもそうだし、
「そうと考えてもいいかもしれない」
と、「理屈が通った別の世界線」を知ることで、
安心する、という原理が、人の中にあるのかもしれない。
なぜ学園アニメを、
当事者である学生が見ずに、
オジサンたちが見ているのだろうか。
学生時代が恵まれなかった人たちが、
「恵まれた学生時代」という物語をみることで、
恵まれなかった不安を払拭しているのだ。
そこにモテるリア充の男が登場しないことが、
それを表している。
そんなリアルを持ってこられたら、
恵まれない人達はリアルに戻されてしまうからである。
補完する物語に、リアルは必要ないのだ。
これは男女とも同様で、
女性が見るイケメンたちの何かには、
美女やカワイイ女は登場しないことになっている。
女の敵は女だからね。
世界を理解するのに、
ほんとうのことは必要ないかもしれない。
「架空だが、筋が通っていること」を知ることで、
とりあえず安心するのかもしれない。
なぜフィクションに逃避するのかの答えがこれだ。
ほんとうのことは永久にわからない。
あるいは、わかっても受け入れられない。
だから、「筋が通るわかりやすいもの」で、
心の平安を持つのかも知れない。
震災の避難所では、
少年ジャンプがよく読まれたという。
「日常に戻りたかった」という証言がのこっているが、
それは「筋の通るものを受け入れる」日常だったのかもしれない。
人は、筋の通ることがないと、
不安になるのだ。
だから、筋が通るものを欲している。
人工知能や不景気やキャッシュレスには、
人は不安を抱いている。
だから、筋が通るものなら、
受け入れられやすいだろう。
それが嘘でもだ。
私達は物語を書く。
なんのために?
自分の妄想を書いて楽しむだけだったら、
家でやっていればよい。
それを社会に発表して、何かの役に立つとしたら、
「新しい筋の通り方」こそが重要になってくるだろう。
矛盾があって、テーマに落ちていない物語?
そんなの、物語を分かっていない糞野郎だぜ。
2019年04月17日
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