2019年04月18日

絶妙な難易度を与えること

主人公が楽勝のことをやっても面白くない。
主人公が失敗しそうなことにチャレンジしても面白くない。

出来そうだけどちょっと無理そうで、
でも頑張ればいけるかもしれない、
その絶妙な難易度を設定するといい。


それは、「迷い」が生じるからだ。

迷わずに遂行する人もカッコいいけれど、
物語の主人公はカッコ悪い。
最終的にはなにかをなし得たカッコいい人へと変貌するが、
その瞬間までは泥にまみれ、
逃げたり失敗したりもする人だ。

カッコ悪いとは迷うことである。
やるべきかやらざるべきか、
手を抜くべきか無理をしてでも頑張るべきか、
妥協案はないのか、条件を変えれば良いのではないか、
そんなことをシミュレーションしては悩むと良い。

絶妙な難易度のときほどそれがうまく描けるだろう。

その迷いは、観客の不安でもある。
うまくいくのか?ほんとに?
失敗するんじゃないの?
と、そう思った時点でハラハラしている。

それは既にストーリーに夢中になっている、
ということだ。


絶妙な難易度はどう考えれば良いか。
答えは簡単で、
「その人物にとっての」を設定すればいいだけのことである。

僕にとってはモテモテになることは簡単だが(嘘)、
ほとんどの人にとってはそうではない。
だけど、親しい人に「おっ」と思ってくれるくらいなら、
うまくいけばできるかもしれない。
逆に、とてもコミュ障の人ならば、
目を合わせるだけで困難かもしれない。
(たいていネットでは饒舌だから、そこを利用することも可能だ)

ほとんどの人は真でも、
その人にとっては出来ないかもしれないし、
その逆もあるので、
それは設定次第ということだ。

子供が主役の映画は、
ときにこうした「子供ならではの限界」にすぐぶち当たることで、
困難と脱出を上手に設定することがある。

逆にじじいだと「わかってるのに体がついてこない」
なんてエンターテイメントを作れるかも知れないね。

能力設定と障壁は、
絶妙にバランスさせれば良い。
そして、一人の中でそれをやるのではなく、
チームによって凸凹があると、
協力や組み合わせによってその困難を突破することもあるだろう。
さらにいうと、
最初から一枚岩ではないチームが、
ある困難を越えるために、
わだかまりを捨てるなど、
心の成長を経て協力し合うようになれば、
もうそれはひとつのストーリーになってしまうわけだ。
ほとんどの悩みは人間関係にある。
物理的困難だけでなく、
人間関係的困難も、障壁になり得る。


問題を出す人は、解答例も考えなければならない。
絶妙な難易度設定、
誰もが気づかない、あっと驚くショートカット。
何通りもやり方があること。
何通りもやり方があるように見えて、実は唯一しかやり方がないもの。
そうした問題につくれれば、
ストーリーは面白くなる。

誰にでも解けるのに、主人公の能力では困難とか、
誰にも出来ないのに、主人公の能力ではいけるとか、
そのような変形ごと可能なのが、
物語の難易度設定の面白いところだ。


問題設定をする人は、難易度に詳しくなければならない。
つまり、ストーリーテラーは、
人生の難易度について詳しくならなければならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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