主人公が楽勝のことをやっても面白くない。
主人公が失敗しそうなことにチャレンジしても面白くない。
出来そうだけどちょっと無理そうで、
でも頑張ればいけるかもしれない、
その絶妙な難易度を設定するといい。
それは、「迷い」が生じるからだ。
迷わずに遂行する人もカッコいいけれど、
物語の主人公はカッコ悪い。
最終的にはなにかをなし得たカッコいい人へと変貌するが、
その瞬間までは泥にまみれ、
逃げたり失敗したりもする人だ。
カッコ悪いとは迷うことである。
やるべきかやらざるべきか、
手を抜くべきか無理をしてでも頑張るべきか、
妥協案はないのか、条件を変えれば良いのではないか、
そんなことをシミュレーションしては悩むと良い。
絶妙な難易度のときほどそれがうまく描けるだろう。
その迷いは、観客の不安でもある。
うまくいくのか?ほんとに?
失敗するんじゃないの?
と、そう思った時点でハラハラしている。
それは既にストーリーに夢中になっている、
ということだ。
絶妙な難易度はどう考えれば良いか。
答えは簡単で、
「その人物にとっての」を設定すればいいだけのことである。
僕にとってはモテモテになることは簡単だが(嘘)、
ほとんどの人にとってはそうではない。
だけど、親しい人に「おっ」と思ってくれるくらいなら、
うまくいけばできるかもしれない。
逆に、とてもコミュ障の人ならば、
目を合わせるだけで困難かもしれない。
(たいていネットでは饒舌だから、そこを利用することも可能だ)
ほとんどの人は真でも、
その人にとっては出来ないかもしれないし、
その逆もあるので、
それは設定次第ということだ。
子供が主役の映画は、
ときにこうした「子供ならではの限界」にすぐぶち当たることで、
困難と脱出を上手に設定することがある。
逆にじじいだと「わかってるのに体がついてこない」
なんてエンターテイメントを作れるかも知れないね。
能力設定と障壁は、
絶妙にバランスさせれば良い。
そして、一人の中でそれをやるのではなく、
チームによって凸凹があると、
協力や組み合わせによってその困難を突破することもあるだろう。
さらにいうと、
最初から一枚岩ではないチームが、
ある困難を越えるために、
わだかまりを捨てるなど、
心の成長を経て協力し合うようになれば、
もうそれはひとつのストーリーになってしまうわけだ。
ほとんどの悩みは人間関係にある。
物理的困難だけでなく、
人間関係的困難も、障壁になり得る。
問題を出す人は、解答例も考えなければならない。
絶妙な難易度設定、
誰もが気づかない、あっと驚くショートカット。
何通りもやり方があること。
何通りもやり方があるように見えて、実は唯一しかやり方がないもの。
そうした問題につくれれば、
ストーリーは面白くなる。
誰にでも解けるのに、主人公の能力では困難とか、
誰にも出来ないのに、主人公の能力ではいけるとか、
そのような変形ごと可能なのが、
物語の難易度設定の面白いところだ。
問題設定をする人は、難易度に詳しくなければならない。
つまり、ストーリーテラーは、
人生の難易度について詳しくならなければならないのだ。
2019年04月18日
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