母親の胎内に溜まった毒が出るから、
次男次女以降の方がするっと作れて健康、
なんて俗に言われたりする。あくまで俗説。
ものづくりも似たところがあるのか、
大抵「一つ目に作ったもの」には不具合があり、
二つ目以降に作ったもののほうが、
こなれていることが多い。
僕が数を出せというのは、
こうした不具合を確率的に下げるための経験則だ。
一個しか作ることができないと、
それにこだわってしまう。
そのこだわりを取るためである。
最初に作ったものは、
大抵無理をして作られている。
思いついたアイデア先行で、
アイデアの実現に興奮しているため、
リアリティとか成立条件に無理がある状態でも気づきにくく、
ドヤ顔をしたさすぎて、
少しでも批判されると傷つき、
改訂を要求されてもなかなか出来ない。
つまり、柔軟性に欠ける。
二個目、三個目に作ったものは、
一個目の狭い見方よりもフラットに見ていて、
目端が効いていて、
柔軟に他のものとの調整がきくことが多い。
実装としてタフである、とでも表現すればいいか。
僕が練れ、ということの中には、
「同じアイデアでも違う実装を何個か出せ」
ということも含んでいる。
そのアイデアで一個目に作ったものは、
まだ練りが足りていない、脆いものであることが多い。
「こんな実装が他にあるかもしれない」
と二個目で一個目のカウンターを作り、
三個目が大体多くの客観を含んでいる。
勿論一個目が脆いけど尖っていることもあり、
それを採用した方がいいというときもある。
勿論、四個目、五個目…の方にもっとタフでずば抜けたものが出る可能性もある。
これではダメだ、これはある、
などと比較すると、アイデアの実装に客観性が生まれ、
「尖って脆いものでいくべきか、
タフで丸めたものでいくべきか、
やや狭いがこういうルートでいくべきか」
なんてことを引いた目で見れるようになる。
これが一個しか作ってないと、
ダメだ!通用しない!死ぬ!
と余裕がなくなってしまう。
一文字も変えられないよ!だってギリギリのベストだもん!
なんて意固地にもなってしまう。
フラットさを見失っているんだよね。
昭和の昔は、子供はたくさん作ったものだ。
「何人か死んでも誰かが出世する」なんてことを、
ふつうに言う人がたくさんいた。
「兄弟親類は、そいつに頼れば良い」ともね。
一人っ子少子化で、税金に苦しむ若者と、
大らかさ、タフさにおいて全然違うと思う。
日本の衰退は、この余裕の無さと関係している。
人間というのは不思議なもので、
一個しかないと焦るけど、
複数あると余裕が出る。
初心者のストーリーテリングが必死で、
ベテランのストーリーテリングが余裕があるのも、
長子しか生んでないキーキーした母親と、
なんぼでも生んだるわというマンボウのような、
違いかもしれない。
数を出せ。
それはそもそも多角度から考え、
ぱっと見では気づかなかった場所から眺めることでもある。
勿論それには頭の体力、持続力もいる。
僕は人よりネチネチ書くとよく言われるが、
それくらい多角度から普段から考えているということでもある。
同じことを繰り返すのではなく、
毎度毎度同じものを違うところから眺めている。
そのねちっこさは、芸術家の資質でもある。
そして、
いつか、誰からも見られてなかったすごい角度にたどり着けると、
オリジナリティになるわけだ。
パッと考えた一個目は、
誰かがパッと考えたものの中にあるかも知れない。
本当にそうかどうか、
他に何個も考え出してから、検討してもよい。
その為には、普段から数を出し慣れていないと出来ない。
最低5、出来れば10を目安に、
たくさん出してみるとよいだろう。
ためしに、「とある映画のキャッチコピー」を、
30くらい書いてみると、
それを実感できる。
最初の方に書いたやつは、考えが浅いことがわかる。
2019年04月23日
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