2019年04月23日

長子は不具合を持って生まれる

母親の胎内に溜まった毒が出るから、
次男次女以降の方がするっと作れて健康、
なんて俗に言われたりする。あくまで俗説。

ものづくりも似たところがあるのか、
大抵「一つ目に作ったもの」には不具合があり、
二つ目以降に作ったもののほうが、
こなれていることが多い。


僕が数を出せというのは、
こうした不具合を確率的に下げるための経験則だ。

一個しか作ることができないと、
それにこだわってしまう。
そのこだわりを取るためである。

最初に作ったものは、
大抵無理をして作られている。

思いついたアイデア先行で、
アイデアの実現に興奮しているため、
リアリティとか成立条件に無理がある状態でも気づきにくく、
ドヤ顔をしたさすぎて、
少しでも批判されると傷つき、
改訂を要求されてもなかなか出来ない。
つまり、柔軟性に欠ける。

二個目、三個目に作ったものは、
一個目の狭い見方よりもフラットに見ていて、
目端が効いていて、
柔軟に他のものとの調整がきくことが多い。

実装としてタフである、とでも表現すればいいか。


僕が練れ、ということの中には、
「同じアイデアでも違う実装を何個か出せ」
ということも含んでいる。

そのアイデアで一個目に作ったものは、
まだ練りが足りていない、脆いものであることが多い。
「こんな実装が他にあるかもしれない」
と二個目で一個目のカウンターを作り、
三個目が大体多くの客観を含んでいる。

勿論一個目が脆いけど尖っていることもあり、
それを採用した方がいいというときもある。

勿論、四個目、五個目…の方にもっとタフでずば抜けたものが出る可能性もある。
これではダメだ、これはある、
などと比較すると、アイデアの実装に客観性が生まれ、
「尖って脆いものでいくべきか、
タフで丸めたものでいくべきか、
やや狭いがこういうルートでいくべきか」
なんてことを引いた目で見れるようになる。

これが一個しか作ってないと、
ダメだ!通用しない!死ぬ!
と余裕がなくなってしまう。
一文字も変えられないよ!だってギリギリのベストだもん!
なんて意固地にもなってしまう。
フラットさを見失っているんだよね。

昭和の昔は、子供はたくさん作ったものだ。
「何人か死んでも誰かが出世する」なんてことを、
ふつうに言う人がたくさんいた。
「兄弟親類は、そいつに頼れば良い」ともね。
一人っ子少子化で、税金に苦しむ若者と、
大らかさ、タフさにおいて全然違うと思う。
日本の衰退は、この余裕の無さと関係している。


人間というのは不思議なもので、
一個しかないと焦るけど、
複数あると余裕が出る。

初心者のストーリーテリングが必死で、
ベテランのストーリーテリングが余裕があるのも、
長子しか生んでないキーキーした母親と、
なんぼでも生んだるわというマンボウのような、
違いかもしれない。



数を出せ。
それはそもそも多角度から考え、
ぱっと見では気づかなかった場所から眺めることでもある。

勿論それには頭の体力、持続力もいる。
僕は人よりネチネチ書くとよく言われるが、
それくらい多角度から普段から考えているということでもある。
同じことを繰り返すのではなく、
毎度毎度同じものを違うところから眺めている。
そのねちっこさは、芸術家の資質でもある。

そして、
いつか、誰からも見られてなかったすごい角度にたどり着けると、
オリジナリティになるわけだ。

パッと考えた一個目は、
誰かがパッと考えたものの中にあるかも知れない。
本当にそうかどうか、
他に何個も考え出してから、検討してもよい。


その為には、普段から数を出し慣れていないと出来ない。
最低5、出来れば10を目安に、
たくさん出してみるとよいだろう。

ためしに、「とある映画のキャッチコピー」を、
30くらい書いてみると、
それを実感できる。
最初の方に書いたやつは、考えが浅いことがわかる。
posted by おおおかとしひこ at 10:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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