僕が数をやれ(数をやるには具体的には短編を沢山書くこと)
と時に触れていうのには色々な理由がある。
そのひとつに、
「わたしにはばらつきがある」
と理解することがある。
人間が正確に同じ程度のことをコンスタントにできるのは、
「決まった作業の時」であることを理解しよう。
創作というのはつねに新しいことをすることだ。
(新しくなければそれはクリエイトではなく、
イミテイトである)
新しいことを、コンスタントなもので出来るわけがない。
(工数管理?あほか)
つまり数をやればわかることは、
「わたしはばらついている」ということなのだ。
面白さ、面白くなさ。
完成度の高さ、低さ。
ツカミ、オチ。
伏線のうまさ下手さ。
ジャンル。パターン。
スピードのペース。
すべった、噛み合った、
出来不出来。
仮に一日で終わる作業でも、
時間帯によってばらついていることがわかる。
そもそも、同じ作業を一日するわけではなく、
「毎ページ異なること」を書こうとするわけだから、
それはばらつきがあって当たり前だ。
第一稿が面白くない理由は、
つまりこれだ。
「それを書き始めてから書き終えるまで、
ばらついていたから」なのだ。
逆にいうと、
二稿三稿でやるべきことは、
各シーンの出来のばらつきを揃える
(理想は、もっとも出来のいい部分と同じレベルに、
他をすべてリフトアップする)
ことなのだ。
あなたは毎日毎時間ばらついている。
あなたは何ヶ月間もばらついている。
だから、
「一本の話の中でばらつかないようにする」
ことが、
「ある秩序をつくること」
なのである。
現実は不確実で曖昧だ。
創作とは、それに一線を引き、くびきを打とうとする行為である。
だから、最初の一文字目から最後の一文字目まで、
一ミリの狂いも許されず統一されていなければならないのだ。
しかるに。
わたしはばらついている。
それを自覚するためにも、
何本も書いてみるとよい。
自分のばらつきの頻度分布が、なんとなくわかってくる。
「いつもならもっと書ける」
「いつもと比較すれば出来た方」
などと比較ができるようになる。
その平均値があなたの地力であり、
創作とはそれを少しでも越えようとすることだ。
2019年04月25日
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