2019年04月25日

わたしにはばらつきがある

僕が数をやれ(数をやるには具体的には短編を沢山書くこと)
と時に触れていうのには色々な理由がある。

そのひとつに、
「わたしにはばらつきがある」
と理解することがある。


人間が正確に同じ程度のことをコンスタントにできるのは、
「決まった作業の時」であることを理解しよう。

創作というのはつねに新しいことをすることだ。
(新しくなければそれはクリエイトではなく、
イミテイトである)

新しいことを、コンスタントなもので出来るわけがない。
(工数管理?あほか)


つまり数をやればわかることは、
「わたしはばらついている」ということなのだ。

面白さ、面白くなさ。
完成度の高さ、低さ。
ツカミ、オチ。
伏線のうまさ下手さ。
ジャンル。パターン。
スピードのペース。
すべった、噛み合った、
出来不出来。

仮に一日で終わる作業でも、
時間帯によってばらついていることがわかる。

そもそも、同じ作業を一日するわけではなく、
「毎ページ異なること」を書こうとするわけだから、
それはばらつきがあって当たり前だ。

第一稿が面白くない理由は、
つまりこれだ。
「それを書き始めてから書き終えるまで、
ばらついていたから」なのだ。

逆にいうと、
二稿三稿でやるべきことは、
各シーンの出来のばらつきを揃える
(理想は、もっとも出来のいい部分と同じレベルに、
他をすべてリフトアップする)
ことなのだ。


あなたは毎日毎時間ばらついている。
あなたは何ヶ月間もばらついている。

だから、
「一本の話の中でばらつかないようにする」
ことが、
「ある秩序をつくること」
なのである。


現実は不確実で曖昧だ。
創作とは、それに一線を引き、くびきを打とうとする行為である。
だから、最初の一文字目から最後の一文字目まで、
一ミリの狂いも許されず統一されていなければならないのだ。


しかるに。

わたしはばらついている。

それを自覚するためにも、
何本も書いてみるとよい。
自分のばらつきの頻度分布が、なんとなくわかってくる。
「いつもならもっと書ける」
「いつもと比較すれば出来た方」
などと比較ができるようになる。

その平均値があなたの地力であり、
創作とはそれを少しでも越えようとすることだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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