昨日中条あやみのドラマを流し見しながら思ったこと。
もう日本のドラマは、ストーリーなんていらないんじゃないか。
中条あやみがカワイイかどうかしか見て居なくて、
ストーリーを見ていない可能性がある。
それは、日本が「何かを成し遂げることが出来なくなってしまった社会」
に突入したことと、
軌を一にするのではないだろうか。
中条あやみはカワイイ。
ドラマを見ているとナースコスプレがよく似合うし、
顔は小さいし、変顔すらかわいいし、
しかも変顔を愛でるように、
わざとそういう場面が沢山用意されているのではと思った。
つまり、「ドラマ」をみている時間、
私達は中条あやみをひたすらカワイイと思って見ている。
これは、猫動画をみることと何がちがうのだろうか、
とふと思うわけだ。
猫動画を見ているときは、
その猫(彼または彼女)が、
「何を成し遂げようとしているのか、
何が動機で、どういう障害があり、
それを成し遂げることで、どういう意味があるのか、
その歴史的な意義」
などということを考えない。
ひたすら、
こういうことを考えているのか、カワイイ。
悲しいのか、よしよし。
頑張ったね、えらいね。
君も嬉しいと俺も嬉しいよ。
よかったね、よろこんでいるよ。
などと思ってみているはずだ。
これは感情移入ではなく、
共感である。
ニューロンのミラー細胞が反応して、
大脳に感情が投影されるだけの現象だ。
子供を育てるときの感情の現象に似ている。
これがないと、わけのわからない子供なるものを、
愛情あふれて育てることが出来ないから、
人間には必要な機能であることはわかる。
で、中条あやみをみているときに、
同じ感情が芽生えているということは、
これは猫動画や子供の運動会ビデオを見ているときとまったく同じであって、
物語をみているときとは違う感情であることが、
分った。
分ったというのは、
僕はもう十年以上地上波のドラマなんて見ていない(つまらないから)からで、
みなさんには常識だったのかもしれない。
つまり、ドラマなんて、
「誰がカワイイか、誰がかっこいいか」
をひたすら見るだけのものであって、
ストーリーに即した感情を共有するものではない、
というものになった可能性が高いと感じた。
ストーリーとは何かをひとことでいうと、
「何かを成し遂げる」ことだ。
中条あやみはドラマの中で、
何かを成し遂げようとしているわけではない。
ナースものにありがちな、
「命を預かる現場の人間ドラマ」に悩むわけではないし、
人として成長することをしているわけでもないし、
医者と看護婦の領域の違いに悩むわけでもないし、
命の神秘性に畏敬を感じるわけでもない。
このような枠組み自体が古臭い、
新しい看護婦のドラマはこうあるべきだ、
と挑戦しているわけでもない。
ただナースのコスプレをした猫が、
日常系のカワイイ姿を見せて、
男も女も興奮している(その興奮は低いレベルで)
ようにしか見えなかった。
いや、だから、日本のドラマはレベルが低いのだ。
さて、本題。
これはドラマの衰退であることは間違いない。
ドラマが猫動画になってしまったといえる。
この衰退こそが、日本の衰退と関係している、
ということが本題だ。
つまり、ドラマとは何かを成し遂げることであるが、
いま、日本で、何かを成し遂げることってリアルか?
ということなのだ。
努力や根性やチャンスを生かすことで、
何かを成し遂げられた高度成長期、70年代は、
ドラマの全盛期であった。
我々も彼らのように、何かを成し遂げられる、
という希望があったからこそ、
ドラマに感情移入できたわけだ。
それは80年代のバブルで、
「24時間戦えますか」に象徴されるような、
モーレツ社会で、何かを成し遂げることがリアルだった。
90年代はトレンディドラマが主流となったが、
「成し遂げること」の対象が、「おしゃれになること」であることが、
時代を反映していた。
オシャレな恋愛、オシャレな仕事がメインになった。
成し遂げることはまず金で買い、
買い続けてセンスを磨くことで得られた。
だから、成し遂げること自体は、
わりと簡単になった。
時代が現代に至って、
何かを成し遂げることはとても困難になった。
日本が停滞し、終了ムードになっていて、
「何をやってもやめたほうがいい」
という諦観(恐怖)が蔓延している。
何かをやれば炎上するならば、
現状維持で何もしないほうがいい、
という感覚になっている。
最近興味深かったのは、
「トロッコ問題」
(列車が暴走していて、5人を轢きそうになっている状況で、
切り替え器を倒せば5人が助かるが、一人が死ぬという状況になる、
切り替え器を倒すべきか、という問題。
殺す人数が少ないほうが功利主義や合理主義だろうか、
という正義を議論するための思考実験)
の回答に対して、
「何をしても炎上するから、
ただ見ている」
という回答が話題となったことだ。
これが今のリアルだと思った。
何を成し遂げても、成し遂げたことにならないから、
何もしないという発想は、
かつてはニートの発想だったはずだ。
それが、現在に蔓延している感覚だと思う。
つまり今の日本人は、
なにをしても成し遂げられる気がしないから、
何もしないで、猫を愛でていることしかできないのだ。
高等遊民でもなく、吟遊詩人でもなく、
ローマの寄生消費貴族に、成り下がったと言えるだろう。
しかも貴族ほど唸る金のない。
日本人がこうなのだ。
ストーリーが流行る訳がない。
だから、「ドラマ」はストーリーではなく、
猫に特化していく。
猫が受けるから、
猫を何匹も投入して、
「なに猫が見れるのか」に特化していく。
だから宣伝ポスターは猫集合のブロッコリーになっていく。
何かを成し遂げることに一喜一憂する、
ストーリードラマは、死滅していくわけだ。
さて。
映画はどうだろう。漫画は。小説は。演劇は。
少し不安である。
テレビはもう誰もみていない。
たとえばネットで見られているのは、
ストーリーか? それとも猫か?
僕はストーリーが大好きでここまで頑張ってきたが、
ちょっと萎えてきた。
日本でない場所、
たとえばアメリカや、シンガポールやインドでは、
何かを成し遂げることに、リアリティがあるように思われる。
(隣の芝生が青く見えているだけかもしれないが)
インド映画が面白いのは、
ひりひりした、
「何かを成し遂げられること」のリアリティがあるからだと思うんだよね。
日本の時代劇、たとえば昭和を舞台にしたものが、
ドラマとして成立しそうなのも、
まだ「成し遂げるリアリティ」があるからだと思われる。
さあ。明日はどっちだ。
僕は、面白い舞台を設定して、そこで何かを成し遂げるストーリーが、
結局いつでも面白いとは思う。
猫は点で、ガワだろうが。
(猫は中条あやみとは限らない。
イケメンが沢山でているやつもそう)
大岡監督の一ファンです。
大岡監督の創作や作品に対する姿勢、
世相に対する考え方が好きです。
漫画家志望の身ですが、勉強させていただいています。
応援しています。頑張ってください。
何かの役に立てていれば幸いです。
ほんとは一つ一つ技の名前をつけて、
「72芸の1、○○!」とか言いたいんですが、
そんな漫画今でもあるんだろうか。(男塾世代)
出版不況とか関係なく、面白い漫画は売れます。
そこでしか味わえないオリジナルの娯楽がある限り。
ぜひ頑張ってください。
なにをしても成し遂げられる気がしないから、
何もしないで、猫を愛でていることしかできないのだ。
この流れの先が異世界転生ものなのではないでしょうか。
”もう現世では何も成し遂げられないから、来世・別世に期待しよう”という……
まるで宗教のようです。
いずれ物語よりも宗教の経典の方が流行ってしまう時代が来るかもしれません。
そう思うぐらい今の日本人は現実を諦めてしまっているような印象があります……
日本人は無宗教などと申しますが、
一部の人は創作の世界を「経典」とした「信者」
だったりしますよ。
神とか尊いとか言ってるし。
大本教やオウムやサイエントロジーや、
バシャールやスピリチュアルだけでなく、
「尊い人」と物語という経典があれば、
人は夢中になるのではないでしょうか。
宗教も物語も、僕はたいして違いがないと考えますね。
宝塚の信者を劇場の前で見ると、
ナチス以上に統制のとれた信者を見ることができますよ。
異世界転生は一つも見てないですが、
似たような物語は昔からあります。
「猿の惑星」だってトラックに轢かれてないけど、
「事故から生還すると」から始まってるし、
「ここではないどこかへ行きたい」
という願望自体は人類の普遍と考えるべきです。
「ライフ・イズ・ビューティフル」なんて傑作もあります。
ラノベが良くないのは、
世界観のリアリティがやわやわなところでしょうか。
それだけ現実に適応できない人がいるということです。
僕は、物語とは、逃避先ではなく、
現実に上手に戻してあげるべきだと思います。
単純な疑問なのですが、映像作品の多様化と捉えてはだめなのでしょうか。
猫動画ばかりなのがよくないのは私も思いますし、もっと面白い話が見たい立場ではあるのですが、
それは両者の比率の問題のような気がしていて、衰退かどうかはちょっと判断保留です。
逆に成し遂げる物語ばかりになってしまうのも、それはそれでどうなのだろうと思ってしまったりもします。
と、この辺りについてご意見いただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
多様化はよいことでしょうか?
ターゲットをクラスタ化して、
より少ない客を確実に取りに行くことしか、
作り手側がしなくなることが問題だと思います。
観客からみれば、ノイズが多くなり、
つまらないものが相対的に増えることになります。
多様化、より広く浅く客を求めた大塚家具、
これまでのわかってる客をきっちり繋げた匠大塚。
匠大塚は、若い人にも門戸を開いて、
よいものとはどういうことか教えてやる、
くらいの余裕がありますが、
大塚家具は「あなたたちの欲しいものはなに?
わからないので調査する!」と、
何がしたいのかわかりませんでした。
僕は、匠大塚のほうが、
質が保て、巨大な制作費がキープ出来ると考えます。
映像作りは金がかかりますから。
チャンネルを多様化した衛星放送は、
質を保てているでしょうか?
質は保ってなくていいから、
とにかくコアでバズっておしまいでいいから、
自転車操業のように作られるユーチューバーは、
三年後誰かの人生の芯になっているでしょうか?
僕はどちらもノーと考えています。
成し遂げる物語を書こうとしたって、
1000本に1本くらいしか、きちんと書けないものですよ。
もちろん、画一化には反対です。
大変勉強になります。
ちょっとだけ補足しますと、広く浅く雑多であれというのとは少し考えが違っております。
つまり匠大塚と大塚家具とどちらもあってよいというのではなく、
よりよい成し遂げる物語をつくりたい匠大塚と、よりよい猫動画をつくりたい匠大塚がいるのはなぜだめだろうというところですね。
これは、ターゲットを安易にクラスタ化してしまうことや、ノイズが増加してしまうから、というあたりでなんとなく主張内容を理解させていただきました。
おっしゃる通りつまらないものは相対的に増えているような気はします。
ただそれぞれがそれぞれで成熟した場合(そもそもそんな事象があるのかは分かりませんが)
それはノイズと言っていいのかはちょっと疑問でした。
観客の好みが何か一つの分野のみと断定すればそうなのですが、意外とあれもこれも楽しんでいる(というか楽しめる可能性がある)のではないかと。
と、ここまで書きながら……単純に私自身が自分にとって、これだ! というものを確立していないだけのような気もしてきました。
素人の戯言のような内容で大変申し訳ありませんが、そんなことを感じたので再度コメントさせていただきました。
「多様性があってよい」なんてのは、
突き抜けたものを作れないクリエイターの言い訳の可能性が高いです。
突き抜けたものは、安易な何かとは違うものです。
すべての凡庸から突き抜けて、普遍的に通用する価値を獲得することです。
「それはどんなものかを定義すること」が、創造という行為だと僕は考えています。
適当につくった出来合いのものは、クリエートとはいいません。
なるほど、別記事でも書かれていましたか。そちらもまた参照させていただきます。
繰り返しますが、適当なものがたくさんあってよい、と考えているわけではないのです。この場合で言うと猫動画でも真剣につくっているものもあるのではないかと、普遍的な何かを目指してつくっている可能性もあるのではないかと、そこを低く見積もっているようにも感じたのですね。
(ただし現状の猫動画が凡庸から突き抜けているとは私も思っていません。そこがちょっと話がややこしいのですが……)
「それはどんなものかを定義すること」が、創造という行為だと僕は考えています。
→こちらについては考えが及んでいませんでした。ありがとうございます。この観点に立ってみると、どちらもあってよい、は創造ではありませんね。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。また色々考えてみたいと思います。失礼しました。
そびえ立つ巨塔「ナショナルジオグラフィック」がありますね。
これらはアーカイブ化されて、作品性も高いです。
(未使用フィルムが再編集された奴が、
何年かに一回動物映画として公開されたり)
アーカイブ化され、繰り返しに耐えられるか、
ということも基準になるかもしれません。
ある日突然YouTubeが消えれば猫動画も消えるでしょうが、
ナショナルジオグラフィックはそうではないでしょう。
geositiesだって消える時代。
Netflixだって突然消えるかもしれない。
まさか本屋が消えていくとは思ってなかったし。
もし突然消えたとしても、誰かが復旧してアーカイブ化するかは、
価値があるかどうかと関係すると考えます。
「現世では幸せになれないから、来世・別世でチート・ハーレムで幸せになる」という物語からは、現実で生かせるような学びを感じないのです。
物語を見終わった後に、人・人生・社会について理解が深まって、少しだけ生きやすくなる、というようなものがない。
一言でいうとテーマがない。
私には、今の日本の雰囲気が「何かを成し遂げることがリアルじゃなくなっている」からこそ、「何かを成し遂げることが大事だよね」という物語が必要のように思えます。
そういう物語が作られずに猫動画みたいな作品ばかり作られるというのは不思議ですね……
水は低きに流れると申します。
それを嘆いても仕方ありません。
エントロピーは増大する定めになっています。
我々は、滝を登る鯉であるべきです。