そもそも、創作に手を出そうというのは、
現実に恵まれてないからするのだ。
自分幸せ!これ以上何もいらない!
みんなに幸せを分けてあげなくちゃ!
という人は創作などしない。
じめじめした人生で、
目立つこともない日陰者が、
現実逃避に物語の世界に浸り、
既成のものでは飽きたらず、
自分でもやってみようと始めるものだ。
だから、ほんとうの創作の動機とは、
「自分のような人が、
夢中になるもの」を作ることなのだ。
虐げられ、充実せず、
暇でしょうがない人のためのもの。
そんな人がコアなファンになり、
周囲に伝染して、物語は伝播する。
それが同時代の人間の無意識にシンクロすれば、
もっと跳ねるだろう。
自分とよく似た人、半分ぐらい似た人、
あまり似てないけど似たようなことを考えた事がある人、
全然似てないけど、書かれていることには感嘆する人、
真反対だが、書かれていることは理解する人、
などに見られるわけだ。
作品は、だから、
コミュニケーションであり、
ひとつの世界の提出であり、
それは、相手に想像上の遊園地を与えることでもある。
さて。
批判されて傷つくのは、
作品と自分を同一視しているからだ、
という記事を以前に書いた。
その奥底に何がいるのかというと、
承認欲求である。
暗い人生を送ってきた人間が、
この創作で賞賛を浴びたいという欲求である。
これまでの暗い人生が、
その賞賛で一気に大逆転すると信じている。
なぜなら自分は素晴らしい物語を書いたからだ。
色んな人に先生と呼ばれて鼻高々となり、
今まで馬鹿にしていた連中も尊敬の眼差しで見て、
いじめた人たちは「俺が悪かったよ、仲良くなろう」
なんて謝ってきて、
羨ましく見ていたリア充たちが「仲間に入りなよ」
て誘ってきて、
どんな人も自分に一目置いてくれる。
そんな未来を夢見てしまう。
なぜなら、自分は素晴らしい物語を書いているからである。
そして、その素晴らしい物語で、
承認されるからには、
その物語には「素晴らしい自分自身」がなければならない、
と誤解している。
普段外に出ることのない、
自分の素晴らしい人格がそこで描かれているからこそ、
他人に賞賛されるのだと勘違いしているのだ。
実際はそうではない。
あなたが暗い人生を歩むのはあなたの人生の選択に過ぎない。
子供の頃ならいざ知らず、
大人になってまで自分の人生を他人の責任にするべきではない。
「ここでないどこか」は存在せず、
あなたはあなたの生きる場所を決めて、
そこにいる人たちと人生の船を進めるしかない。
ほんとうの自分を隠すのは自由だが、
それは賞賛されるべき人格とは限らない。
ほんとうの自分が出せずに苦しく、
作品の中でしか表現できない。
それは真である。僕もそうだ。
だが、
作品が詰まらないことと、
あなたのほんとうの自分とは関係がないのだ。
承認欲求が強いから作品をつくる。
承認欲求が強いから賞賛されたい。
承認欲求が強いから作品と自分を同一視する。
承認欲求が強いから、作品がけなされた時、
自分もけなされて深く傷つく。
あなたが転ぶ時、
このようなメカニズムが働いている。
これを客観的に眺めるには、
ふたつの事実を知ることだ。
ひとつは、
「世間が賞賛するのはあなたではなく作品である」
ということ。
もうひとつは、
「あなたがモテるのは、イケメンだったり優しかったり、
金を持っているから」
ということ。
つまり、
「誰もほんとうのあなたを素晴らしいと言ってくれない」
ということにまず気づくこと。
ほんとうのあなたを褒めてくれるのは、
恐らく親だけで、
恋人だけで、
ごくごく親しい人だけだ。
あなたはその人たちのほんとうの姿を理解しているか?
奥底まで理解してすばらしいと思っているか?
そこまででもないだろうけれど、
全否定するほどでもないだろう。
人の相互理解というのはその程度にすぎない。
その人たちを愛し、大事にしていればそれでよい。
つまり、
あなたはすでに承認されている。
承認欲求の羽を伸ばしてもしょうがないのだ。
ツイッターやYouTubeは、
いいね乞食を量産している。
いいね芸人を沢山生んでいる。
彼らの承認欲求を見てみよう。
なんだか自己嫌悪に陥るではないか。
醜いよね。
作品が面白ければそれでよくて、
承認欲求を前面に出してくるやつは醜いよね。
そう、結局作品が面白いかどうか、
それだけであって、
承認欲求は関係ないのだ。
そこに至らないと、作品は面白くならないのだ。
じゃあ、
暗い人生の中で窓の外を眺めていた、
詰まらない私をどう慰めればいいのだろう?
あなたは後々認められたよ!と、
どうやって告げればいいのだろう?
「告げられない」と諦めることで、
それは逆説的に叶う。
面白い、面白くないの世界に来ることで、
一旦承認欲求を忘れること。
そして、最終的にとても面白いものを、
承認欲求を一ミリもいれずに作った時、
あなたの作品は賞賛される。
暗い人生の中窓の外を見ていたじめじめした自分よ、
私はあなたを忘れることで、
あなたの人生には意味があったと告げることができるのだ。
あなたは他人の作品を見るとき、
何を楽しみに見るのか?
面白そうなシチュエーションで、
面白そうな事件で、
面白そうな展開で、
面白そうなキャラで、
面白そうなテーマだから見るのであって、
「この作者のほんとうの自分を見せて、
その承認欲求を満たすための何かを見よう」
とは思わないだろう。
その作品が詰まらなければ、
「作者つまんねえ」と罵声を浴びせて、
面白ければ「神」と賞賛するだけで、
「この作品は作者のほんとうの自分が出ていて素晴らしい」
などと思わないだろう?
あなたの作品も、
そうなるべきなだけだ。
そして、他人に賞賛されたいからといって、
自分が面白くないものを受けるという理由で出してはならない。
いいねの奴隷になり、視聴率と寝ることになる。
それが好きならそんな人生もある。
自分が面白いものを、他人と共有することを考えなさい。
「これ面白いだろ?」「ほんとだ!」
子供の頃に、拾った綺麗な石を友達に見せたことと、
創作はそう変わらない。
今度は拾うのではなく、つくる側にまわっただけだ。
承認欲求は、
おっぱいに挟まれることで満たしなさい。
風俗で金払ってもよい。
作品とは別の場所に、承認はある。
「おれはこの作品で認められたい」と視野が狭くなっている時、
あなたは承認欲求のループに入っている。
「今年のボジョレーはねえ、天気に恵まれたので酸味が強くて美味しいですよ」
なんてニコニコしてるのが、正しい生産者のありかただ。
みんなに面白いものを勧めればよいだけだ。
2019年04月29日
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