傷つき方、治り方のシリーズ3つめ。
ボコボコにされたとき、
「誰に」言われたかを問題にする。
そもそも、
その人は全ての作品をフラットに見て、
表現する目を持っているだろうか?
極端な話、嫌韓ネトウヨの人は、
韓国映画だったらなんでも糞というのではないか?
極左なら、無政府主義ならなんでも万歳というのではないか?
これらの意見は偏っているだろうか?
真ん中の意見があり、
これらは偏っているから無視するべきか?
僕は、どんな評論であっても存在してよいと思う。
偏っているだけで意見を封殺することは、
全体主義を生む。
全員が一つの意見になるまで粛清する、
間違った民主主義を生む。
正しい民主主義は、
全員の偏った意見を尊重し、
全体が幸福になるにはどうすればいいか、
意見を交わし合うことである。
数の暴力は民主主義ではなく、全体主義だ。
SNSでも、「こういう意見が多いから」と、
偏った考えを封殺する傾向にある。
日本の民主主義教育は浸透していない。
これは、村社会の意見封殺である。
言論の自由はこれに反対して生まれたのだ。
我々は近代以前の土人ではない。
どんな偏りも自由である。
また、全体主義はいずれ行き詰まりを迎える。
それを変えるのは、誰も理解できなかった、
たったひとりの新理論だ。
我々はその一人にならなければならないから、
常に偏っていることになる。
さて。
「その人の評論は元々偏っている」
ということを認識しよう。
世の中には二種類の人間がいる。
偏っている人と偏っていない人ではない。
「自分の偏りを自覚して、なるべく公平に評論しようとする者」と、
「自分の偏りを自覚しないまま、これが絶対だとする者」だ。
前者が正しく、後者が間違っているとも限らない。
なるべく公平にしようとした結果、
本質を見誤ることもあるし、
ガリレオのように異端裁判にかけられる場合もある。
私は未熟だから、経験豊富な人の意見を尊重しよう、
という態度は謙虚であるが、
その人が間違っていない保証はない。
その人だって悪意をこめて間違えているわけでもない。
さあ。わからなくなってくるね。
だからその1が大事になってくるのだ。
あなたの確信は、
これまでの歴史や現在を踏まえて、
なされたはずで、
そもそもそれに触れていない評論なんて、
主観で好みを言っているに過ぎないのだ。
主観的な好みを読み取り、
それに合わせてカメレオンのように形を変える者は、
道化師という。
あなたは道化師ではない。
船の舳先に佇み、次行くべき所を指し示す者である。
船に乗せている人が多いほど、
船が大きいほど、
あなたの責任が大きいだけだ。
すべての人は、主観で「面白くない」と語る権利がある。
しかし身になる評論というのは、
「過去のこの作品のこれと比べて、
このようであった」と、
来し方から批評するものである。
なぜなら、検証可能な具体があるからだ。
もっとも、その評論自体が、
偏っている可能性は否定できない。
あなたが何が妥当かを検証して、
次の作品に活かせばよい。
どの段階でどう思えばそれを思えたか?
を、シミュレーションして、
次はそこでそうしてみよう。
これが正しい反省会だ。
ではあなたは、何に傷ついているのか。
「バレたら困ること」を恐れていて、
その図星を指されたから傷つくのではないか。
禿を例にとる。
禿は個性の一つで素晴らしい個性だが、
世間では欠点と捉えられているので、例に出す。
僕は、「髪が後退しているのではない。私が前進しているのだ」
という言葉が大好きだ。
自分は禿だとバレるのではないか、
と恐れている人がいる。
自分は禿だと薄々感づいていて、
しかし認めたくなくて、
それを勘付かれないようにしているが、
お前禿だなと指摘されて、
「やっぱりそうなのか…そうだよなあ…」
と落ち込む。
それと同じに過ぎないのである。
自分の欠点は、何回も書けば書くほど、
薄々勘づくものだ。
しかしそれはバレちゃいないだろうと思っていたら、
案の定バレた。
あるいは、意識的ではなかったが、
無意識にそう思っていた、
そこに傷つくのである。
事前に、
「髪が後退してるのではなく、私が前進している」
と割り切って笑えるほどに客観視できていれば、
意外な伏兵に傷つくことはない。
もっとも、
それに気づいていたら、
リリース前にリライトしてこいよ、
という話でもあるが。
むしろ、「禿大好き!」になるまで練り込むのが、
クリエイティビティというものだ。
自分の弱点を把握して、
そこに上手にかさぶたをつくるようにしよう。
初めて弱点に矢を受けたら、
そりゃなかなか立ち直れないぜ。
2019年04月30日
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