2019年04月30日

【薙刀式】配列は言語に影響するか

tkenさんが面白いことを言っていて、
僕は全然あると思っている。


ワープロ導入期、
つまり手書き原稿がデジタルにとって代わられようとするとき、
大変な議論があった。

よく言われたのは、
「漢字が増える」(変換が容易なため)
「漢字を忘れて、しかも漢字に頼ってしまう」
(原義を確認しなくなる)
だったと思う。

これは、今でも私たちの文体に影響があると思う。
ひらがなで開くべきところを、
漢字でエラそーに書いてしまうことは、
稀によくあることだ。
とくに複合語尾(してみる、とか)なんかは、
連文節変換してないとつい漢字になってしまうよね。

漢字の原義を忘れるから、
「確率」と「確立」の混同とか、
めっちゃ多いと思う。
「ふいんき」が変換できないとかね。
(最近はふいんきでも変換するらしいが)


qwertyローマ字でいうと、
w関連の言葉は遠慮されやすいという仮説を出しておく。
「わたし」「我々」「忘れて」「渡す」
なんかの言葉が、有意に減ると僕は思う。
私小説が減ったのは、「私」とqwertyで打ちにくいから、
という珍説を出しておこう。

(逆に今でも私小説を書くような古い作家は、
「わ」を出すのが苦でない親指シフト派、と断定。かも)

先日炎上した北川悦吏子の発言、
「私は親指シフトなので速く打ててしまうため、
一息つくために句読点で刻みがち。
だからセリフに句読点がやたら多い」
(大意。現在は削除)
も、
親指シフト特有の文体への影響と考えられる。
とくに親指シフトは、
短文節変換推奨だから余計そうなると考えられる。

ちなみに、
変換行為が「、」を増やしていると自分でも思うことがある。
言葉を書いてひといきつくときに「、」を打って変換しまいがちで、
気をつけてるんだけどそうしてしまう。
なので、あとで遡って整えることもよくある。


僕はqwertyローマ字が窮屈で仕方がなかった。
それで第一稿を書くと、
「自分の言葉が変形される」という窮屈さ、さらには恐怖があった。
何か大きな力に強制されて、
自由な発想が出来ないと感じていた。

だから原稿はいつも手書きで、
提出時にqwertyで清書する、
という二段階方式にしていた。

しかし効率に問題を感じて、
二年前にこの道にはいったわけだ。

逆にいえば、
カタナ式や薙刀式は、
「自分の言葉がキーボードによって変節を受けにくいようにするため」
に作ったと言えるかもしれない。


そういえば、
Androidのフリックから、
iPhoneのフリックに変えた時も不自由を感じた。
Androidでは文節伸長や文節移動が出来たのだが、
iPhoneにはそれがなく、短文節変換のみだ。
なので、打つ言葉が短くなったと感じる。
言葉の射程が、数文節から一文節になってしまった。
「、」を打ちがちなのも、
その間に先を考えているからだと感じる。


さらにいうと、ツィッターを僕はやらない。
140字で言えることなんて、
ここのブログから見ればしれていて、
深い思考が出来なくなると感じているからだ。
僕は大体2000字ぐらいのことをひとまとまりに考えていて、
それはツィッターでやってもしょうがないことなので。

つまり、ツィッターは、
日本人の思考を狭く短いものにしたと、
僕は考えている。

持続した長い思考には、
それなりに忍耐力や懐の深さが必要で、
すぐに炎上する、底の浅い民度になったのは、
ツィッターとiPhoneの短文節変換のせいじゃないのか、
と半分まじめに考えている。
すぐ書けるということは、熟考しないことだからだ。


あるいは、ラインですぐ返信がないことに、
とくに若者は切れやすい。
僕は小学生の頃遠い町の友達と文通してたので、
「届いてればそれでいいや」と思う気の長さがあるので、
既読無視に傷つく若者は、
心が狭く浅いと感じることがある。


言葉は思考や文化そのもので、
文体や使用言葉の変化は、
人間の中身の変容だと考えることができる。

qwertyローマ字に僕が猛烈に反対しているのも、
「まともな文章がこんな方式で書けるわけがない」
と考えているからだ。
いまや、qwertyで書ける文章が、
まともな文章の上限になってしまっている感がある。

そのちっぽけな限界を超えるのは、
従来の方式に縛られない、
文章の書き方しかないと思う。
それで僕は手書きを捨てないし、
それに近似しようと薙刀式やらその周りのことをずっと考えている。

打鍵効率なんかほんとうはどうでもいい。
腕が折れてもいいから、
僕は自分の文章を制限されずに書きたい。

でも腱鞘炎は痛いので、
痛くならない配列はさらに良い。



今考えているのは、
僕の手書きと薙刀式の比較だ。
僕の手書きは汚くて、他人に解読できるものではないが、
もっとも自分の意思があらわれている。
それと薙刀式(現在デジタルで僕にとって一番まし)との比較で、
「文章を書くこと」について、
なにか炙り出せるといいなあと考えている。


僕はqwertyローマ字も安いキーボードも否定する。
それ以外を知らない、井の中の蛙になるべきではない。
もちろん、
qwertyも劣悪キーボードの影響も受けない強者もいるだろう。
僕が影響を受けまくって、
40年くらいキーボードアレルギーだっただけだ。
いまだに薙刀式とminiAxe 20gをもってしても、
手書きの方を選んでいるし。

(ブログとかはデジタルの方が即アップできるので、
速報性のデジタルを選んでいる)


こういう個人がいる以上、
デジタルで溢れる言葉は、
「その方式に適応した結果」だと僕は考えている。
日本語やそれをめぐる文化は、変節したと思う。
マザーテレサによれば、言葉は運命をも変えるからね。
posted by おおおかとしひこ at 15:04| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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