どうせ大したことないんだろ、
と高をくくっていたのだが、
なかなかに面白かった。
僕らは、そういえばPCやスマホの画面ばかり見ている。
実際に人に向き合い、
画面を見てない時間と、
人に会っていながら、
あるいは会ってない時、
画面を見ている時間のどっちが多いんだろう。
この映画は、
「21世紀にとっての現実とは、
画面の中の方が多いかもしれない」
なんて現状をうまく、
「リアリティ」にしたのだ。
ストーリーにおいて、
リアリティと物語性(いわばファンタジー)のバランスは、
とりわけ気をつけるべき内容だ。
昔のように、
お芝居をカメラで撮ることよりも、
YouTubeやライブ配信や、
ツイッターや何かでの「カメラ撮影」のほうが、
リアルになってしまったのかもしれない。
じゃあ、
その「カメラ達」で何が表現できるのか、
という思考実験として面白かった。
日常に起こる非日常がストーリーだから、
失踪事件はなかなかにちょうどいい題材であった。
何回かのどんでん返しはなかなか興味深く、
構成も巧みであったと思う。
もしこれを「普通の撮り方」だとどうなるだろうと想像してみると、
「まあ普通の映画だな」としか感想がない。
しかしリアリティが圧倒的なため、
どんでん返しがかなり効く。
三人称映像ではなく、
実質の主観映像に近い一人称だったからかもしれないね。
「メッセージに一回は書き込むんだけどデリートして、
別の言葉を書き込む」の技が効いていた。
本当に言いたいことや、感情が迸るものを、
我々は隠して生きている。
そのリアリティが「新しい表現」(しかし我々の日常なのだが)
になっていたと思う。
さて。
結局、これらの表現や、カメラの普及によって、
映画は、
普通の人の普通の話になってしまった、
かも知れない。
韓国系という「特別じゃない普通の人」
という感じもそれを後押ししている。
特別じゃないどこにでもいる人の、
ちょっと特別な話は、
それこそ映画の題材ではあったが、
その特別じゃない人を、
スタアが演じる違和感はどうしても拭えない。
それを上手にリアリティに押し込んだ技ありの映画であった。
ストーリーが平凡なのはしょうがないんだよな。
平凡な人に起こる非日常レベルだからなあ。
この場合の平凡とは、
「映画の中では平凡」ということ。
つまり映画は、
非日常を追いすぎて、非日常に麻痺しているのかも知れない。
「ほんとうにこんなことがあったら、
自分ならどうするだろう」
という没入感やリアリティに満ちてはいたが、
客観的に見れば、
「○○が犯人のご都合主義エンド」のようにも見える。
ふと我に帰った時、
それが客観的に見ても、
凄くて面白くて為になる、
そういうぎゅっと詰まった何かであるべきで、
それが映画なのだ、
という教訓を、我々に教えてくれる作品だ。
ということで、
映画は一人称でなく、
三人称であるべきなのだ。
事件は普通の人にも起こる。
しかしその解決や、それが後に残すものが、
普通ではいられない何かに昇華するとき、
それが映画レベルのストーリーだということが、
ここから理解できると思う。
あと個人的に、
タイピング速度が速くて、英語話者は羨ましいなあと思った。
変換とか同音異義とか誤変換修正とかないんだぜ。
日本語タイピングだったら、
だいぶ展開が遅かったかもね。
PCのシステムは、英語に特化してるんだなあ。
Macのタイプ音が、
バタフライじゃなくてパンタグラフなのは、
音がうるさくないからだろうね。
2019年05月01日
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