2019年05月01日

事件は普通の人に起こる(「サーチング」評)

どうせ大したことないんだろ、
と高をくくっていたのだが、
なかなかに面白かった。

僕らは、そういえばPCやスマホの画面ばかり見ている。


実際に人に向き合い、
画面を見てない時間と、
人に会っていながら、
あるいは会ってない時、
画面を見ている時間のどっちが多いんだろう。

この映画は、
「21世紀にとっての現実とは、
画面の中の方が多いかもしれない」
なんて現状をうまく、
「リアリティ」にしたのだ。


ストーリーにおいて、
リアリティと物語性(いわばファンタジー)のバランスは、
とりわけ気をつけるべき内容だ。

昔のように、
お芝居をカメラで撮ることよりも、
YouTubeやライブ配信や、
ツイッターや何かでの「カメラ撮影」のほうが、
リアルになってしまったのかもしれない。

じゃあ、
その「カメラ達」で何が表現できるのか、
という思考実験として面白かった。

日常に起こる非日常がストーリーだから、
失踪事件はなかなかにちょうどいい題材であった。
何回かのどんでん返しはなかなか興味深く、
構成も巧みであったと思う。

もしこれを「普通の撮り方」だとどうなるだろうと想像してみると、
「まあ普通の映画だな」としか感想がない。
しかしリアリティが圧倒的なため、
どんでん返しがかなり効く。

三人称映像ではなく、
実質の主観映像に近い一人称だったからかもしれないね。
「メッセージに一回は書き込むんだけどデリートして、
別の言葉を書き込む」の技が効いていた。

本当に言いたいことや、感情が迸るものを、
我々は隠して生きている。
そのリアリティが「新しい表現」(しかし我々の日常なのだが)
になっていたと思う。


さて。

結局、これらの表現や、カメラの普及によって、
映画は、
普通の人の普通の話になってしまった、
かも知れない。

韓国系という「特別じゃない普通の人」
という感じもそれを後押ししている。

特別じゃないどこにでもいる人の、
ちょっと特別な話は、
それこそ映画の題材ではあったが、
その特別じゃない人を、
スタアが演じる違和感はどうしても拭えない。

それを上手にリアリティに押し込んだ技ありの映画であった。


ストーリーが平凡なのはしょうがないんだよな。
平凡な人に起こる非日常レベルだからなあ。

この場合の平凡とは、
「映画の中では平凡」ということ。
つまり映画は、
非日常を追いすぎて、非日常に麻痺しているのかも知れない。

「ほんとうにこんなことがあったら、
自分ならどうするだろう」
という没入感やリアリティに満ちてはいたが、
客観的に見れば、
「○○が犯人のご都合主義エンド」のようにも見える。

ふと我に帰った時、
それが客観的に見ても、
凄くて面白くて為になる、
そういうぎゅっと詰まった何かであるべきで、
それが映画なのだ、
という教訓を、我々に教えてくれる作品だ。


ということで、
映画は一人称でなく、
三人称であるべきなのだ。

事件は普通の人にも起こる。
しかしその解決や、それが後に残すものが、
普通ではいられない何かに昇華するとき、
それが映画レベルのストーリーだということが、
ここから理解できると思う。



あと個人的に、
タイピング速度が速くて、英語話者は羨ましいなあと思った。
変換とか同音異義とか誤変換修正とかないんだぜ。
日本語タイピングだったら、
だいぶ展開が遅かったかもね。
PCのシステムは、英語に特化してるんだなあ。

Macのタイプ音が、
バタフライじゃなくてパンタグラフなのは、
音がうるさくないからだろうね。
posted by おおおかとしひこ at 14:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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