2019年05月06日

物語とは体験である

映画を「座って受動的に見るもの」
と考えている人は、ほんとうに面白い映画を見たことがないのではないか。

ほんとうに面白いストーリーは、
「その中に入ってしまっている」ため、
座ってるとか立ってるとか関係なくなり、
「主体的に色々考えている状態」になっている。


そうでなければ、
物語が疑似体験のレベルにまで達しない。

疑似体験というと、
画質が4Kだとか、
音質がドルビーアトモスフィアだとか、
五感の精度ばかり扱われるが、
そんなの関係ない。

画質がSDの全盛期月9は面白かったし、
ドット絵のDQやFFは最高の体験だった。
画質云々いうバカは、
小説の印刷が100dpiとか600dpiとか言うことと同じだ。
問題はガワでなく中身だ。
ガワが大事なら、VRがたいして流行らない理由が説明できない。

では、
物語が(疑似)体験だという根拠はなにか?

それは、
観客が「自分がこの人だったらどうするだろう?」
と想像を始めることで起こるのだ。

目的と状況を与えられ、
そうしなければならないとしたら、
自分がこの人だったらこういう選択をするだろう、
と予測を始めたところが、
その体験のはじまりなのだ。

状況や目的が明快でないと、
頭の中でシミュレーションできない。
どういう行動を取ればどうなるか、
ある程度予想できないと、
同様にどのような手が存在しうるのか、
頭の中でシミュレーションできない。

「一ヶ月後に収入を倍にしないといけない。
どうやって?」ではだめで、
「一ヶ月後に収入を倍にしないといけない。
ただし主人公には音楽の才能があるが金がない。
コツコツバイトを続ければバイトリーダーになれる可能性もある。
さて、音楽に賭けるか?バイトリーダーに賭けるか?」
のように、
頭の中でシミュレーションしやすいように状況を作るのだ。

バイトリーダーになったとしても収入が二倍になるとは思えないので、
音楽に賭けるしか選択肢がなさそうだが、
頭の中でシミュレーションするには、
もう少し判断材料を与える必要がある。
その歌声が美しいであるとか、
実は音楽プロデューサーに声をかけられたことがあるとか、
あるいは、貯金が一千万あるので、
競馬に全額突っ込むという第三の選択肢を与えるとか。

自分だったらどうするか想像するために、
欲しい情報は与えるべきである。

つまり、最善手を選びやすくするような条件をつくるのだ。

あらゆる見地からみて、
主人公の行動が最善手であるとわかり、
かつ頭の中のシミュレーションがそれであったときら
観客は、
「シミュレーションできた」という快感を得る。

これが感情移入、同化のはじまりだ。

そして色々な情報を総合した上で、
「ここは失敗するんじゃないか」と観客が予測した時、
同様に主人公が失敗すれば、
「予想は当たった」となり、
頭の中のシミュレーションの精度に自信が出てくる。

そしてストーリー展開上、
新しい局面に来た時、
また考えるのだ。
「この時、自分が主人公だったらどうするだろう?」と。

何をやったらどうなるか、
大体予測がつくだけの、
シミュレーションが頭の中でできるだけの、
情報が必要だ。

そしてそれで最善手だと思える行動を主人公が取る時、
自分の選択のように思えてくる。

つまり、あらかたこの時点で、
観客は主人公に成り代わって、
体験がはじまっているのだ。


こうなるように、
観客を巧妙に誘導しなければならない。

ただ状況を与え、
主人公の目的を明快にして、
行動を描いても、
ついてこないのだ。

「こういう時、自分が主人公と同じ立場だったら?」
と思わせて、想像させるだけの、
なにかが必要なのだ。

観客のIQはバラバラで、興味もバラバラだ。
しかし彼らが全員シミュレーションしやすいようなら
分かりやすくシンプルで、
かつ体験したことないシミュレーションを与えることが肝要だ。

既にしたことのある体験の追体験は面白くない。
新しい状況への対処が面白い。
(あるいは、追体験させる娯楽を、
ノスタルジーという。
誰もが該当するノスタルジーは、ひとつの娯楽だ。
しかしノスタルジーオンリーだと、
過去の回想、つまり懐メロでしかない。
ノスタルジーは誘引要素でしかなく、
そこに新しい状況への対処という要素が必要だろう)


つまり、
よくできたストーリーは、
主人公の行動が、
「観客が自分だったらするだろうと思ったこと」に、
シンクロするように出来ている。

逆を取ると、
「俺だったらこうするのに、
コイツは何をタラタラやってんだよ」
という主人公と観客にズレがあると、
イライラして詰まらないということになるわけだ。

(もっとも、このズレの部分に伏線があるのだな、
などと事前にわかっていると、
観客は必死でそれに注意するようになるが)


このような、
頭の中のシミュレーションと、
映画の中の進行が一致した時、
それは映画を見ているのではなく、
「その主人公の体験を体験している」
という感覚になる。

だって自分の選択通りに進むRPGと同じことになってるのだから。

一方向に進む時間を眺めている、
という感覚はそこにはない。
自分の選択肢通りに事が進んでいく、
という感覚になっているはずだ。


逆にいうと、
こうなっていないクソ映画は、
「椅子に座ってただ受動的に見るもの」なのだ。

受動的に他者を見ていたら、そりゃ詰まらんよ。
面白い映画は、
主人公とまるで一体になって、
物事を解決する体験なのだから。

(蒸し返すが、「映画刀剣乱舞」は、その意味でクソ映画だ。
女子にとって三日月は眺めていたらときめく他者だから、
受動的に見ていても間が持つのかもしれない。
僕にとっては、三日月に俺がなったとして、
という主人公のシミュレーションが頭の中で出来ない段階で、
離人症になってしまうのだ。
この二時間は苦痛でしかない)


では、
どうやったら出来るのだろう。
予想させて、当たらせるとよい。
あり得ない二個の選択肢と、最善手のひとつの選択肢の、
三択でもやれば良いだろう。
それが簡単な問題から難しい問題へ並べると、
徐々に盛り上がってくるかもしれない。

「もしあの時あっちの選択肢を取っていたら」
なんて後悔があれば、
また深くなるかもしれない。


観客はバカではない。
自分よりバカな選択をする主人公はバカだと思う。
自分より賢すぎる選択をする主人公も、
理解できずに距離が開いてしまうだろう。

最もいいのは、
半歩だけ観客を上回ることだ。
その匙加減は、
何度も書いて経験的に積んでいくしかない。
posted by おおおかとしひこ at 00:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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