そういうことを考える日は、毎日でもあるだろう。
そうやって「これこそが俺の個性で、売りなのだ」
などと発見し、
そこに全力を投入することもあるだろう。
ところが。
あなたの個性はそうだとは限らない、
ということも知っておこう。
なぜなら、
あなたの個性を判断するのは、他の人だからだ。
もしあなたが大阪人で、
大阪人の中ではたいして面白くなかったとしても、
東京に来れば確実に面白い人の枠内に入れる。
評価するのはあくまで、
あなたの周りの人である。
全国の評価と、あなたの周りの評価も、異なる。
あなたの周りは、自分の周りにないものを個性とする。
全国の人は、
全国の人が触れるものと、自分の周りにないものを、
個性とする。
あなたが自分の個性だと考えているそれは、
どのようなものだろうか?
(キャッチフレーズをつけている人もいるだろう)
それは、
「自分の周りにいないから」個性だと思っているか?
「全国レベルで」個性だと思っているか?
「自分史上うまくいったこと」を個性だと思っているか?
何を個性だと考えるかは、
その人の相対で決まる。
あなたが被っていると考えても、
他の人は被ってないと考えるかもしれない。
「全国レベルでは似たような個性はあるけれど、
発注できる範囲にはいないから、君に仕事を」
という発注は、
プロの現場で現実的にある。
それを自分の個性として舞い上がっていては未来がない。
あるいは、自分の個性だと思っていたことが、
井の中の蛙であり、
全国レベルや映画史レベルで見れば大したことないことと、
あとで気付いた時、
折れることもよくある。
あなたの個性はなんなのか?
逆に、自分の作品内で、個性はどうやって分けている?
「同作品内の、他との差別化」でやってるでしょ?
つまり、他人の「この人の個性はこう」は、
相対的にしか決まらないということだ。
もちろん、評論家は、相対でなく絶対で評価するべきだが、
科学論文でなく売文のときは、
客のレベルに合わせた相対で書くことも多いね。
受けることは重要か?
いいねを目的に個性を打ち出さなければならない、
それは現代人のある種の焦燥になっている。
そこと距離をおいて、
こういうものは価値がある、
って文脈の外からくるのが、
大抵は正解だ。
あなたの個性を、近視眼的に考えるべきではない。
オールタイムオールスペースで考えろ。
そうしたら突出なんて出来ないって、
なんとなくわかって来る。
あなたの個性を打っていくよりも、
あなたの作った内容を打っていくべきだ、
と長期的にはわかると思う。
(数年で売りぬける、という戦略もあるし、
そういうときは真逆だが)
だから、
あなたの思う自分の個性なんてちっぽけなもので、
誰かに発見してもらった個性も相対的なもので、
あなたの真実でもなんでもない。
舞い上がらず、自虐せず、
自分のなし得たことを広い目で眺められればよい。
それにも訓練がかかることを、
知っておくだけで今後の生き方は変わるだろう。
2019年05月10日
この記事へのコメント
コメントを書く