2019年05月13日

人間の殆どの動機は、不安である

今の社会や時代が特にそうなのかもしれないし、
普遍的なことかもしれない。


映画のように、
「敵を倒すために命をかけるぞ!」
なんて人はほとんどいない。

逆にそれはリアルではない。

じゃあリアルの人の動機は何かというと、
突き詰めれば「不安」ではないか?


将来が不安だから働き、貯金する。
なんとなく不安だからツイッターやネットをチェックする。
彼とうまくいくか不安だから、色々する女子。
女と付き合うと面倒そうだと不安だから、
付き合いを避ける男子。

マスコミに園に突撃されると不安だから、
記者会見で盾になる園長。
運営の言うことが不安だから、行動に出た山口。
世間に炎上するのが不安だから、
「責任が取れない」と表現狩りしてくる、
出版社、配給、プロデューサー、会社役員たち。


不安の反対はなんだろう。
自己責任かな。

殆どの人は不安だから、
なるべく事を起こさないように生きている。
「事を起こさない事」が目的のようなものだ。
なぜなら、自己責任の矢面は不安だからだ。

流行を追いかける女子高生ですら、
「この足並みから外れたくない」
という不安で、タピオカを買っているかもしれない。

マスコミは流行を発信するが、
それは「遅れたらかっこわるいぜ」
という不安を裏に持つ脅迫である。

生命保険は、病気や怪我や死を、
取引材料に使う死神だ。
不安を売って人を動かす。


大衆には不安を与えると良い。
「そんな時はこれ!」と正解を提示して、
「みんなこれ!」と不安を解消すると、
みんなそれを選択する。


物語の主人公は、
不安である。
そこで立ちふさがる障害となる人たちも、
不安である。

全ての行動は、不安だからするのだ。
人の事を邪魔したり、「それはどうかな」と牽制したり、
排除しようとするのも、
不安だからするのだ。


ところで。

時々、その不安を捨てて、
自己責任で人生を全うしようとする、
そんな一瞬がある。

それは人生ずっと続くことはなく、
精々二週間から三ヶ月くらいだ。
全ての危険をいとわず、
傷をつけられる事をいとわず、
何があっても立ち上がり、
目的に達したいと思う時期。

世に出ようとする時、
何かを発見した時、
長いこと逃げていたが思い立った時。

つまり、戦う時だ。


不安からする行動は、守りの行動だ。
なるべく火の粉を浴びたくないように行動する。
自己責任からする行動は、攻めの行動だ。

多くの社会や人々は、不安が動機で、
守りの行動をする。

その空間で、
一人だけ、あるいは数人だけが、
戦いの行動を取る。

その始まりから、途中のもつれを描き、
どう集結するまでを描くのかが、
物語である。


みんな不安で、
一人だけ攻めだ。
それを成就するにはどうすればいいか。

みんな不安で、
一人だけ攻めだが、
もっとも強大な障害が、攻めに転じた。
それに勝利するにはどうすればいいか。

それが物語である。



不安で、守りに入る社会や人々を観察しよう。
どうやって責任回避しようとしているか、
よく観察しよう。
彼らは、攻める人の障害になる。


記者会見で盾になる園長や、
NGT運営を批判する山口は、
なぜ物語の主人公のように輝いて見えるのか?

自己責任で戦い、攻めているからだ。


おそらく誰にでも、
そんな戦う時期がある。

若い時かもしれないし、中年の時かもしれないし、
老人になった時かもしれないし、
一回しかないかもしれないし、
何回もあるかもしれない。

戦うというのは、殴ったり銃を撃つこととは限らない。
もっと別の行動で戦うことのほうが、
人生では遥かに多い。

それを描くのが、
物語という特別な時間だ。
posted by おおおかとしひこ at 09:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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