今の社会や時代が特にそうなのかもしれないし、
普遍的なことかもしれない。
映画のように、
「敵を倒すために命をかけるぞ!」
なんて人はほとんどいない。
逆にそれはリアルではない。
じゃあリアルの人の動機は何かというと、
突き詰めれば「不安」ではないか?
将来が不安だから働き、貯金する。
なんとなく不安だからツイッターやネットをチェックする。
彼とうまくいくか不安だから、色々する女子。
女と付き合うと面倒そうだと不安だから、
付き合いを避ける男子。
マスコミに園に突撃されると不安だから、
記者会見で盾になる園長。
運営の言うことが不安だから、行動に出た山口。
世間に炎上するのが不安だから、
「責任が取れない」と表現狩りしてくる、
出版社、配給、プロデューサー、会社役員たち。
不安の反対はなんだろう。
自己責任かな。
殆どの人は不安だから、
なるべく事を起こさないように生きている。
「事を起こさない事」が目的のようなものだ。
なぜなら、自己責任の矢面は不安だからだ。
流行を追いかける女子高生ですら、
「この足並みから外れたくない」
という不安で、タピオカを買っているかもしれない。
マスコミは流行を発信するが、
それは「遅れたらかっこわるいぜ」
という不安を裏に持つ脅迫である。
生命保険は、病気や怪我や死を、
取引材料に使う死神だ。
不安を売って人を動かす。
大衆には不安を与えると良い。
「そんな時はこれ!」と正解を提示して、
「みんなこれ!」と不安を解消すると、
みんなそれを選択する。
物語の主人公は、
不安である。
そこで立ちふさがる障害となる人たちも、
不安である。
全ての行動は、不安だからするのだ。
人の事を邪魔したり、「それはどうかな」と牽制したり、
排除しようとするのも、
不安だからするのだ。
ところで。
時々、その不安を捨てて、
自己責任で人生を全うしようとする、
そんな一瞬がある。
それは人生ずっと続くことはなく、
精々二週間から三ヶ月くらいだ。
全ての危険をいとわず、
傷をつけられる事をいとわず、
何があっても立ち上がり、
目的に達したいと思う時期。
世に出ようとする時、
何かを発見した時、
長いこと逃げていたが思い立った時。
つまり、戦う時だ。
不安からする行動は、守りの行動だ。
なるべく火の粉を浴びたくないように行動する。
自己責任からする行動は、攻めの行動だ。
多くの社会や人々は、不安が動機で、
守りの行動をする。
その空間で、
一人だけ、あるいは数人だけが、
戦いの行動を取る。
その始まりから、途中のもつれを描き、
どう集結するまでを描くのかが、
物語である。
みんな不安で、
一人だけ攻めだ。
それを成就するにはどうすればいいか。
みんな不安で、
一人だけ攻めだが、
もっとも強大な障害が、攻めに転じた。
それに勝利するにはどうすればいいか。
それが物語である。
不安で、守りに入る社会や人々を観察しよう。
どうやって責任回避しようとしているか、
よく観察しよう。
彼らは、攻める人の障害になる。
記者会見で盾になる園長や、
NGT運営を批判する山口は、
なぜ物語の主人公のように輝いて見えるのか?
自己責任で戦い、攻めているからだ。
おそらく誰にでも、
そんな戦う時期がある。
若い時かもしれないし、中年の時かもしれないし、
老人になった時かもしれないし、
一回しかないかもしれないし、
何回もあるかもしれない。
戦うというのは、殴ったり銃を撃つこととは限らない。
もっと別の行動で戦うことのほうが、
人生では遥かに多い。
それを描くのが、
物語という特別な時間だ。
2019年05月13日
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