平凡なエピソードやキャラクターから逃れるには、
どうしたらいいでしょうか。
数を書くことで、ある程度可能です。
数を書けば、「一回これは書いたことあるぞ」
ということに気づけるからです。
「前やったから、今回は変えてみよう」
と気づければクリエイターの資質があると言えます。
「同じだからコピペしよう」と思う人は、
馬鹿な会社員にむくのではないでしょうか。
もう少し想像力があれば、
「こんな場面はよく見るぞ」
「しょうもないドラマでも見ないぐらい陳腐なやつだぞ」
ということに気づけるでしょう。
「あれとあれを混ぜてみよう」と工夫してみても、
それでも似たような場面になることはよくあることです。
みんな似たようなことを考えているからね。
みんなオリジナルな場面を捜しています。
絵で工夫することも出来ました。
今回はエピソードやキャラクターで工夫してみることを考えます。
「大事な人を、二駅先に置いてきた」
の主人公と恋人の出会いの場面を例に。
男女の出会いのシーンは、
どんな物語でも工夫をするところです。
ラブストーリーの第一歩がうまく行かないと、
そのあとのロマンスがうまく行かないからです。
日常が急に非日常になる、大事な場面になるはず。
にもかかわらず、この場面はとても平凡でした。
本筋はラブストーリーではないにしても、
あまりにもどこかで見たような場面すぎます。
本人はドラマみたいな出会いを書いている、
と思っているかもしれませんが、
こういったものは、そのへんのドラマで百万回くらい見たような場面です。
看護婦との出会い方としても平凡だし、
漫画家を目指している人の、「原稿が素敵だから恋に落ちる」
というのも百万回見た気がします。
せっかくのオリジナルな出会い方を作れるチャンスを、
棒に振っているとしかいいようがありません。
たとえば。
倒れている主人公。
「私は看護婦です。症状を教えてください!」
と新人看護婦なので助けようとするヒロイン。
単に腹減っていた、とわかる。
「金ないから貸して」とラーメン屋に二人で行く。
必ず返すと約束する。
彼女を引き止めたいが故に、
「いま実は看護婦の漫画を描こうとしていて、
取材させてくれないか」
と嘘をつく主人公。
とか。
これによって彼のキャラクターがちょっと平凡から脱出することになります。
ということは、
「同棲している漫画を描こうとしているから、
同棲してくれないか」と頼んだり、
「次の漫画は新婚さんを描こうとしているから、
結婚してくれないか」と頼むことが、
出来る、ということです。
最初の場面を生かして、
こういったキャラクターを作れれば、
オリジナルなエピソードをあとでも応用できるわけなのです。
こういったことを仕込めるのは、
初手が原則です。
あとから別のキャラクターになると、
キャラが違うということになるし、
第一印象は最後まで影響を与えるからです。
第一印象でキャラクターを見せて、
そのキャラクターをオリジナルで印象づけられれば、
それを裏切ることも可能になります。
(これは初手で意識して考えてもいいし、
思い付かなかったら最後まで書いてから、
リライトで足していく手もあります)
このストーリーの場合、
主人公もヒロインも、ごく普通のキャラクターに見えました。
エピソードも平凡だし、
出会い方も会話も普通で、
父親がちょっと違うくらい。
(しかし、父も漫画を描いていた、ってどんでんはそこまででもないどんでん)
つまり、平凡な人たちの平凡なドラマでしかないわけです。
作者の原田さんは小説がメインの方のようです。
小説の場合、文体で平凡を脱することが出来ます。
しかし、カメラと人間の芝居でやる脚本では、
文体は存在しない、ということに気づくべきです。
映画は小説より演劇に近い媒体です。
もちろん、ティムバートン映画のような、独特の世界をつくることは可能で、
それは小説における独特の文体に対応するでしょう。
しかし、このストーリーからはそのような独特さが伝わってこないので、
平凡な絵の平凡な文体のものにしか見えません。
演劇で特殊な世界を作りこまないものを、
ストレートプレイといいます。
(対義語はミュージカルとかダンスとか、実験的なもの)
脚本はストレートプレイがほとんどです。
ということは、文体に頼れない。
ということは、エピソードやキャラクターで、
オリジナリティな文体を作っていくしかないわけです。
(勿論、ストーリー自体でオリジナルを追及することも可能です)
ほかの作品でも、
独特のキャラクターや、独特のエピソードが弱かったように思います。
「総員、乗艦セヨ。」の風見は、口癖という点で独自性を作ろうとした跡は見えますが、
それが「非常にオリジナリティがある」とは言えません。
物語とは全体のことですが、
物語の記憶のほとんどは、
場面や人物やセリフの断片です。
だからオリジナルな場面をつくり、
オリジナルな人物やセリフを作ることは、
当たり前にすることです。
(そもそも「これは見たことあるぞ」と途中で思うことが大事です)
そのうえで、
「そのときどういう決断や行動に出たか」
「それがどうなったか」
がストーリーだと言えるでしょう。
平凡な場面や人物だなあと自覚したら、
どうにかしてでも変ったことをする癖を付けたほうがいいかもしれないです。
もちろん、逆張りだけだと誰でもできるので、
逆と順を使い分けられないと意味がないですが。
さて、次は初心者共通の「二人芝居」について言及します。
第二回、絵で表現する、は目から鱗でした。
他の方の作品も読み、自分ならどうするか考えていましたが思考が浅すぎました……。
書きなれていない、読みなれていないという経験値の差ですね。
「(自分以外の作品を読んで)なんか、物足りない。こんなふうだったらいいのにな」と思うのにそれもフンワリしていましたね……。
とくに自分の作品については俯瞰はむずかしく、指摘されてグサグサ刺さりました。
積みあがる没の原稿を、黒塗りの原稿……。
小道具で、臨場感が増すとは。目から鱗です。
第三回では私の作品を例にあげていただきありがとうございます。
平凡から脱する、とはこういうふうにするのかと感動しました。
キャラクターもストーリーも臆病になりすぎました。猛省すべきところです。
例のようであるほうが、たしかに興味をそそられます。
全体を通して痛いところを突かれたというか、見透かされた感じがします。平凡とか、普通にちょっとスパイスくわえるだけというか……。
図星をつかれたからこそ、もっとおもしろいものを書こうって燃えますし、単純にくやしいです。
私のメインはたしかに小説なのですが、いろいろ挑戦していきたいです。誰かになにかを感じてもらえるなら(楽しいとか、おもしろいとか、悲しいとか)なんでもやります。現に誘われて、ゲームのシナリオ手伝いやジャンルを超えて手を出しています。
大岡先生の理論は、創作の何にでも通じるものだと思いますのでもっと吸収したいです。記事の更新楽しみにしています。
純愛