初心者は、「二人の芝居しか書けない」とよく言われます。
なんででしょう。
主観と客観を同時に存在させられないからでしょう。
だから、せいぜい「自分と他人」と、
ふたつまでしか人格のキャパがないのです。
同時に他人が複数存在していて、
同時に違うことを思っていて、
同時に違う過去や事情を抱えていて、
同時に違う判断や違うことを思って、
同時に違うリアクションや行動を取る、
ということを理解してはいても、
それが二人が精いっぱいなのだと推測されます。
だから、初心者の書く脚本は、
「ワンシーンで二人しか会話していない」
ということがよくあります。
そこに何人いたとしても、
AとBの会話の往復しかなくて、
それで終わりになり、
また別のシーンでCとDの会話になり……
ということの繰り返し。
必ず二人しか出ていない、ということが多いです。
三人以上の同時会話は、とても難しいです。
無意識にそれを避けているとも言えるでしょう。
典型的な例が、「友の歌」です。
この話は皆川と長谷部しか会話していません。
バンドのシーンでも、
ほかのメンバーは何をしていて、何を発言するのでしょう。
(バンドだから、ドラムは最低いるはず)
ピックを貸す場面でも、
貸してくれないギタリストの、バンドメンバーは他にいないのでしょうか。
「自分と他人一人」でしかなくて、
「自分と他人三人」「自分と他人十人」になっていない。
赤では書いたけど、会場のスタッフにピックを借りることはできないのか。
予備のピックはどこかに転がっていないのか。
そういった、「他人はどこで何をしているのか」に目くばせが出来ていないのです。
皆川が貸してあげたときに、
貸さなかったやつらはどう思うのかも目配せがない。
そういえば、病室でも父と母がいるのに、父としか喋っていない。
母はいてもいなくても関係ない、置物になっている。
三人で何故会話しないのかわからない。
少子化の影響でしょうかね。コミュ障の作者にありがちです。
みんなで喋る経験をしたほうがいいです。
これをこじらせると、「セカイ系」になります。
地球と敵(よく見えない、抽象的な敵)と、
僕と君しかいない話です。
他人はいまどこで何をしているのか、
どう考えどう行動しているのか、
まったくわからない。
それはコミュ障だから、といっても過言ではないと思います。
男同士であろうが、
この話はラブストーリーと同じ構造をしています。
出会い、一回別れ、くっつくという構造が同じです。
恋というものは相手しか見えていない盲目のことですが、
その状態を傍目から見たら、
滑稽だろうか、美しいだろうか、陳腐だろうか、
などと落ち着いてみることができるかは、
客観性の問題です。
客観性はどうやったら得られるのでしょうか。
初歩的な訓練は、
ワンシーンを取り出し、
「そこにいる登場人物を、
一人一人全員ぶん演じてみる」
ことで養えます。
頭の中でやらずに、
広いところ、河原や体育館で、
全員の最初の立ち位置を決めて、
体で演じてみるとわかりやすいです。
体の立ち位置が動くので、
物理的に視点が変わります。
誰もいなくてわかりにくいなら、
全員分のぬいぐるみでももってゆき、
その場に置いて想像の助けにするとよいでしょう。
とにかく、「全員の見ている景色が一致していない」
ことを体感してください。
一度体感すると、
次は机の上でフィギュアなどを置いて出来るようになり、
さらに次は頭の中に作業スペースを作れるかもしれません。
僕は慣れているのでほとんど頭の中でやりますが、
複雑な時は俯瞰の図を描いて、
誰がどこにいるのか把握したりすることもあります。
(とくにアクションシークエンスでは、
人が動き回ることが多いから見失いがち)
その基礎は、
自分の物理的体験です。
みんなで喫茶店で喋る小一時間を、
頭の中で席を移動して、
どう見えるか再現できるようになります。
そうなったら客観的になれるでしょうか。
上の例は、客観的というより、
複眼的視点と考えるべきかもです。
客観とは、さらにそれを外から見ている視点のことです。
この喫茶店の会話の中で、
こことここを拾うべきであると考えている思考や、
観客は退屈していないか、何を楽しみにしているのか、
と考える思考や、
外人や文化の違う人は今の話についていってるだろうか、
と考える思考や、
歴史的に見てこのシナリオは面白いだろうか、
と考える思考のことです。
複眼的な思考をしていると、
その場の登場人物だけでなく、
その枠の外の視点も気になるようになってきます。
ただし、
真俯瞰だけの視点は、人間が遠ざかってしまいます。
人間の中にいながら、かつ複眼で、
かつ客観的であることの、
同時進行が求められます。
恋に恋している限り、
このことは分からないと思います。
大体女はこういうのが苦手で、
道で横に並んだり、
満員電車に乗り込んだら奥に行かずスマホを見始めたり、
運転しててもバックミラーや横を見てなかったりします。
勿論個人差はありますが、
それで多くの男がイライラしていることすら気づかないのは、
圧倒的に女性が多いですね。
女だろうが男だろうがどっちでもいいですが、
後ろから殴っていい法律が欲しいです。
つまり、
二人芝居のシナリオは、
後ろから殴っていいです。
なので2人以上かけないのは置物になっている人に話しの振り方がわからないという点では確かにコミュ障っぽさはある。
むしろ置物にしない方法は、人物同士が興味を持ち合うことだけで解決できるとも言える。
あなたはどう思っているの、と聞けばいいだけだ。
登場人物が5人いたとして、その5人が均等に会話をするなんて極端な話ではないはずなので、2人で会話していること自体が問題なのではなく、会話の中で対立関係にあるのが2人のみという状況のほうが問題なのではないか。
登場人物は主人公、ヒロイン、脇役など、振り当てがあるので、やはり一番見たい人物をスポットに当てた会話は理にかなってもいる。
コミュ障云々よりも、単純な登場人物の引き出し、作品郡を読み込んでいるかいないかの差でしかないような気はするが。
初心者の陥りがちな、登場人物が全員同じ人間に見える現象の弊害。
同じ場面にキャラクター性が似たようなのがいるとそもそも話を振る必要がない。
会話においては、いろんな主義主張の数だけ発言権が得られるのは当たり前のことだ。
しかし主義主張がなさそうな置物キャラクターに対しても、他のキャラが興味を持つだけで置物対策になるように思う。
これは主人公側が置物になっている場合に使え、興味をもってあなたはどうなのと質問されると、見ている側もはっとするようなテクニックだと思っている。
個人的に置物というのは急にスポットを当てることでとたんに目立ついいものだという解釈でいる。
会話の主導権は、
リアルでは偉い人とか明るい性格とかが関係するでしょうが、
物語では関係ないとぼくは考えています。
動機の強い人が物語の主導権を握るだけ、
と考えたほうが書きやすいと思います。
となると、最低二人、できればもっといたほうが、
複雑な話が書けるはず、というだけの話です。
「きみはどうだ?」と振っても、
いま焦点となっていることに異なる動機がなければ、
「別に…」というだけで終わりそうな気がします。
あるいは、誰かがいうべきセリフを取るだけになるか。
(劇団でセリフがない役者を救済するために、
シナリオ上そうすることはよくあることですが)
そもそも会話に参加する必要もありません。
ストーリーとは行動のことなので、
喋らずに行動するだけのことです。
複数の人物が存在し、行動させるストーリーは、
作者の人格を分裂させ、かつ俯瞰する行為と考えます。
観察だけで書けるようになると、僕は考えていません。